虚勢の星

                                                                                                           2015/08/15





「柳田さんていつも元気で、堂々としてますけど、今まで挫折した事なんてあるんですか?」
そんな事をたまに後輩に聞かれる事がある。
俺「あるよ、俺のアニメーター人生なんて挫折だらけだよ。」そう言って、今までの挫折経験を面白おかしく聞かせることがある。
技術的に悩み、後輩にもどんどん抜かれ焦った時期もあった。

思い返すと、俺は幼い子供の頃から心が挫折していた。
俺のオヤジは田舎の神主だった。そんな特殊な職業だった為、両親はいつも世間体ばかり気にしていた。

父「この家は普通の家じゃないんだ。神主という職業柄、世間の人間はここを鵜の目鷹の目で見てるんだ。だからどんな些細な事でも我慢しろ。」幼い頃から俺はそう言われ続けて育った。そして両親は厳しかった。口よりも早く手が出る体罰も激しかった。
当時俺の体には、露出してない部分はいつもどこかにアザがあった。

とにかく両親が怖く、体罰の苦痛と窮屈な家庭環境に子供ながらも、いっそ死んでしまいたいと思っていた。
小学生時代の「俺の夢」は「苦しまずに死ぬこと」だった。そんなことばかり考えて生きていた。

小学二年生のある時、母親に布団叩きで叩かれていた時、母親の手元が狂って、布団叩きの先が首に入ってしまった。
みるみるうちに首筋は紫色に腫れあがり、翌日になってもその腫れは引かなかった。学校に登校すると、そのアザに担任の先生が驚いた。

先生「つとむちゃん、その首どうしたの!?」
助かる…今先生に全てを話せば、俺は今までの苦痛から逃れられるかもしれない…
そう思って、俺はすがる思いで全てを担任の先生に話した。
ところが…

先生「嘘をつくんじゃありません!」先生の表情がみるみるうちに険しくなった。そして同情どころか、反対に怒られた。
今思えば無理もない。母親は婦人会活動で後に勲四等を貰い、世間では温厚な「善人」として通っていた。

また両親は近所の農家の人達の為に、田植えの時期と稲刈りの時期には「無償」で季節保育所を開いて村人に貢献していた。
そういったわけで、同級生の中には季節保育所出身の友達もいて、俺の両親をとても慕っていた。
友達「あんな優しいお母さんが、そんなことするわけがない! お前は嘘つきだ!!」その日を境に先生どころか、友達まで敵に回してしまった。
担任からの連絡に母親は、それを息子の不注意の事故として面目を保った。

そして家に帰ると、さらなる厳しい仕打ちが待っていた。
今でも散歩をしていて、どこかで布団叩きの音が聞こえると身震いする。

教育という名目の体罰はその後も続き、初めての家出は小学二年生。
ニワトリ小屋の屋根の上に登って遊ぼうとした時、母親の怒鳴る声。
まずい…確実に叩かれる…そう思った瞬間、俺は走って逃げた。とにかく俺は両親が怖かった。もう家には帰れない…幼いながらも家出しようと考えたのだ。
そして夜中に学校近くの防空壕に潜んでいる所を発見されてしまった。そんな噂が広まり、何人かの友達の親から、俺は「遊んではいけない子」となってしまった。

両親は家での顔と外での顔は全く違った。今思えば、両親は「善人」を維持するために無理を重ねたのだろう。その無理なストレスが子供に向けられる事も度々あった。

小学校から下校して家に上がると、ゴミ箱の近くに紙クズが落ちている。それを拾ってゴミ箱に捨てると、父親が飛んで来た。「それは大事な書類だ!」と言って叩かれた。
数日して家に帰ると、同じ状況に出くわした。
また大事な書類だと言われて叩かれるのは嫌だから、そのまま素通りすると、父親が飛んで来て今度は「お前はゴミも拾えないのか!」と言って叩かれる。理由は何でも良かったのだ。

子供の頃の俺は、いつ訪れるかもわからない「トラップ」に怯えながら、人の目の色ばかり伺っていた。
唯一の情報交換は、四歳年上の兄だった。家での危険の予兆があると、兄が知らせてくれた。
兄「勤、今帰ったら駄目だ! 今揉めてるからトバッチリがくる。」そんな情報を得ると、暗くなるまで家には帰らなかった。

中学生になると、そんな両親への反発から、デタラメな人間として押し通した。クラスでは一番の嫌われ者。担任からは徹底的に嫌われた。
担任「柳田がこのクラスに居ない方がいいと思うヤツは手を上げろ!」と先導。
道徳の時間には担任がクラス全員に作文を書かせた。題材は「柳田の更生法について」。
それを職員室で正座させられて、毎日読まされるのが俺の昼休み時間だった。

何故そこまで嫌われたのか?
それは担任は俺の両親には頭が上がらない。両親はそこそこの田舎の名士だったからだ。
そのうえ母親が担任に言い辛い事は俺の言葉にした。
母親「ウチの勤が言ってたんですけど、先生は…」
そんなわけで、突然担任に呼び出されて、訳もわからず殴られた。
担任「先生はそんな卑怯者じゃないぞお~!」
一体何の事か全くわからない…

担任には誤解され、担任が俺を問題児と率先すれば、周りの生徒はそれに同調する。担任が味方に付けば生徒は怖くない。
同級生からは、神主という特殊な職業をバカにされ、「士農工商」に入ってない卑しい仕事。テキトーな祝詞で金を稼ぐ泥棒より悪どい仕事などと罵られ、親は怒りにまかせブン殴る!
そうしてますます問題児のレッテルが増えていった。

二年になって担任が変わっても、俺の扱いは同じだった。
クラスの金が無くなれば俺のせい。担任からみんなの前で「柳田、お前だろ、こんな事するのはお前しかいないんだ!」
今なら大問題になるだろうが、昔は人権なんて軽んじられていた。
悔しくって学校を飛び出して、誰も居ない村の城跡の森の中で泣いた。
辛い時はいつもその城跡が、俺の泣き場所だった。

村の城跡の高台からは田んぼがよく見えた。
日曜の昼、遠くに同級生一家が仲むつまじく農作業をしている姿を目にした。羨ましかった…
ごく普通の家庭に生まれたかった。同級生一家が休憩に入り、昼食にみんなで楽しく握り飯を食ってる。
その握り飯がどんなご馳走よりもうまそうに見えた。

無理やり入れられてしまった陸上部の部活にも熱が入らず、毎日チンタラ練習しているフリだけしていた。
中学になった頃の俺は、小学生の頃と違って、死ぬのが嫌だった。それは家を出て自立する夢が膨らみ始めていた時期だった。

担任から泥棒の疑いをかけられた翌日、俺は努めて明るく振る舞って教室に入って行った。
俺「昨日は、おかげで一日中遊ぶことが出来たよ。」明るくそう言うと、クラスメートの菊地が近づいて来た。
菊地「柳田が帰った後、突然半鐘がカンカン鳴りだしたんだよ。だからみんな柳田が腹いせに鳴らしてると思ったんだ、アレ柳田だったのか? 」そう真顔で言われて吹き出しそうになったが、俺は嘘をついた。
俺「そうか、知ってたのか、あれは俺だよ。」そう言うと菊地は「そうか、やっぱりなぁ…」と感心したような表情を浮かべた。俺はそんな強がり屋だった。

その過度な強がりの性格もたまには失敗もあった。
同級生「柳田、顔が腫れてるぞ。また先生にやられたのか?、大丈夫か?」
俺「ばあ~か、あんな先公のパンチなんか全然効かねえよ。」
その時ちょうど後ろに担任が通りかかった。
担任「そうか、じゃあ効くようにしてやろう。」そして再び別室へ。

それでも俺は強がり続けた。強がり続けなければ、自分自身を保てなかった。ヘコんでしまったら死ぬしかなかった。
だからいつも生きる為に強がって、無理してヘラヘラしていた。そんな態度がますます嫌われた。
大人を信じる事の出来なかった俺は、辛くても誰にも相談しなかった。相談したところで、小学生時代から「嘘つきの狼小僧」のレッテルが張られた嫌われ者の俺を信じる人間なんていなかった。

そういった生い立ちが、今の俺の人格形成を作った。そして強くもした。
それでも当時は両親を恨んだものだったが、今は恨みつらみは一切無い。
俺の両親はいつしか「善人」に祭り上げられて無理して生きてしまった。そして村社会という「世間」の犠牲者だった。大人になってそう思えるようになった頃、俺の両親はすでに他界してしまった。

柳田家は外からはキチンとした家庭に見られたが、家の中は殺伐としていた。そして家計はいつも火の車だった。それは祖父の時代から、時代に翻弄された家だったのかもしれない。

祖父の時代は金持ちだったらしい。多くの小作人を抱えて、働かなくても収入があったという。
そんな祖父は仕事で地鎮祭や御祈祷に行っても、報酬は貰わなかったらしい。
祖父「ここにはお体の弱い御老人が居ることですから、このお金で御老人に何か美味しい物でも食べさせてあげて下さい。」と言って報酬を返す。そんな善人だったらしい。だがそれはお金があってこそ出来る業。

戦争が終わり、日本の農地解放と同時に小作人制度が廃止された。土地は二束三文で手放す事になり、突然家が貧乏になった。そして俺が生まれる前に祖父が他界した。
父の代になると、父は神主だけの収入で生活していかねばならない。
そこで父が正当にお金を貰うようになると、父の評判は悪化した。
「先代さんは金を受け取らなかったのに、今度の神主は金を取る。金に汚い神主だ。」
ムチャな論理だが、世間はそんなもの。それまで無償だった形の無いものにはあえて金を払いたくない。

そしてオヤジはシビアになれなかった。強がって、祖父の真似をした。祖父の代の無償保育所も引き継ぎ、台所は火の車になった。世間の悪評は消えたが、柳田家の台所の火は消えなかった。
家では度々金をめぐる夫婦喧嘩。家計は正月の初詣客と神社の春祭りの収入で、何とか家計を支えていた。
家と学校との間では体罰の往復で過ごし、精神的にも肉体的にもキツかった。外見は非常に明るいデタラメ人間を装っていたが、心の中はいつも孤独だった。

それでも強がることが全てだった。一人落ち込んで自分は「悲劇のヒーロー」だとばかり、周りに暗い空気を醸し出すことは性に合わなかった。そしてカッコ悪いと思っていた。イキがって生きてきたから今でも元気。
ダメなアニメーターに多い、暗い悲劇の主人公を見る度、俺はカッコ悪いなぁと感じる。閉じこもってしまったら先に進めないし、自分自身が損する。
そしてそれを周りに見せないのが、社会のルールだ。

お盆の季節になるとイキがってた子供時代を思い出す…だが俺にはもうふるさとは無い。
今は実家もある事件に巻き込まれて無くなっている。
両親の墓参りさえ怠って、もう何十年も帰ってない。そんな嫌な思い出の詰まったふるさとだが、時々郷愁の念にかられる時もある。

だが郷愁にかられて帰ったところで、地元での俺は友達一人も居ない嫌われ者。今まで生きてきて一度もクラス会の連絡さえ来た事が無い。
俺には子供時代の友達は一人も居ないから、大人になった今(もうジジイだが…)いっぱい作ろうと頑張ってる。

子供時代の心の救いは、当時の漫画やアニメだった。不思議なことに、一番好きだったのが「巨人の星」だった。主人公は父親によく叩かれていたのが、自分と重なって強くなろうとしてたのかもしれない。
俺の過去は巨人の星ならぬ「虚勢の星」だった。

未だ試練の道だけが続いてる。