ゾンビとの出会い



 扉を開けると、何とも言えない異様な空気だった。どんよりとした、重苦しい不気味な雰囲気。

「おはようございます」

 中には大勢の人間達が机に向かって仕事をしている。でも、誰一人として振り向きもしないで仕事をしている。
 しばらくすると、責任者らしき男が現れた。
 俺は今日からこのアニメスタジオで、動画の指導者として働くことになったのだ。


 柳田勤。アニメ歴約四十年。代表作なし。原画止まりで作画監督の経験もない、二流のアニメーターである。
 俺が初めてアニメをスタートさせたのはこのスタジオだった。そして何十年ぶりかで古巣のこのスタジオに指導者として招かれたのだった。

 だがスタジオの中はまるでゾンビ集団。
 こっちが挨拶をしても返事は無く、みんな無言のまま無表情でボーっとこっちを見ているだけ…。
 中にはこっちに興味が無いのか、すでに何人かは机に向かって仕事をしている。

 すでにジジイだけど、生まれつきノーテンキの俺の性格。
 冗談で軽くジャブを打ってみた。
 
「うっ…」

 誰も顔色ひとつ変えない。
 すかさず一人をつかまえて、

「俺はアニメ界の噛ませ犬。みんな俺を抜いていって自信をつけていってるんだ」

 と自虐ネタ。

「そうですか…、ありがたいですね」

 その男は無表情のままそう答えた。手強い…。
 このスタジオはまるで生気を失った人間達の集まりのように感じた。

 翌日の午後、会社に行ってみるとまだ数人しか来ておらず、スタジオはガランとしていた。  仕事の始まりは昼からと聞いていたのに。
 待てど暮らせど、ほとんどの人間は出社していなかった。  夕方の五時過ぎになるとだんだん人が集まりだした。しかし、みんな無表情のまま俺の前を挨拶もなく素通り。みんな机に座ると無言のまま仕事を始めた。
 会社の中は静まりかえったまま、鉛筆削りと仕事のタップ音だけが響き続ける。
 仕事のチェックの時だけは俺と会話はするものの、みんな個人主義で、仕事が終わると誰に挨拶することもなく、幽霊のようにスーッとドアの外に消えて行った。
 翌日、みんなと打ち解けようと気を利かせた俺は、人数分のショートケーキを買って全員に配った。

 ところが、動画机の上に置かれたケーキに一瞥するだけで、お礼の言葉すらなく、再び仕事を始める連中がほとんどだった。

「おはようございまあす。○○○○です。リテークを持って参りました」
 親会社の進行がリテークカットを持って来訪した。俺は遠くでコピーを取っていたので、てっきり誰かが応対するものだと思っていた。しかし、誰も席を立つ気配さえない。振り向きもせず、みんな他人任せで仕事をしている。
 その時、進行と目が合った。その目は明らかに助けを求めていた。
「誰か応対しないのか!」
 俺が怒鳴った。
 すると、小太りで眼鏡をかけた男が席をスーッと立って、無表情のまま進行に向かって行った。
 そしてお疲れ様の一言もなく無表情で仕事を受け取ると、近くの棚に仕事を置いて再び自分の席に戻って仕事を始めた。


 コイツらは人間なのか?


 俺はそれが現実なのか夢なのか分からないぐらい戸惑った。
 スタジオを管理する制作の責任者だけは至ってまともで、それなりに応対出来るのだが、彼がいない時のスタジオは万事こんな様子だった。

 周りの誰とも話さず、一日中黙々と無表情で仕事をする不思議なスタジオ。
 出社もまちまちで、自由気ままに仕事をするアニメーター達。

 そこで、スタジオの古株に質問してみると、

「そうなんですよ、注意したり管理しだすとみんな辞めちゃうから、放っておくんですよ」

 半ば諦めて、苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。

 俺は四十年近くアニメの仕事をしてきて色んなアニメ会社を渡り歩いて来たが、アニメーターという種族はどこもこんなもんだ。ただ、このスタジオは酷すぎる。
 一般常識が無くても通用するのがアニメーター、それを許してしまうのがアニメの世界。
 一部の有能なアニメーターだけがまともで、多くの雑草アニメーター達はこの程度だ。

 とにかく最近のアニメーターは暗い。
 何よりも管理される事を一番嫌う。また、人と接する事が苦手な人間が多い。中には一般社会では相手にされないような根暗な人間までいる。アニメの世界なら人と接する事なく、自分の好きな絵だけ描いて生活できると勘違いして入ってくる人間までいる。
 そんな人間でもそこそこ絵が描ければ、歯車のひとつとして利用しているのがアニメの世界。
 極論を言えば、作画監督や上手い原画を描くアニメーターを除けば、その他大勢のアニメーターなどには人格など必要ないのだ。

 そんなアニメーターに下手に親身になって接するとヤケドする。

 あるスタジオで、一人の動画の男を指導していた時のこと。アップ日なのにその男の仕事が終わらない。
 そこで俺が全部下描きを入れてあげたら、会社の経営者に「途中の仕事を取り上げられた」との苦情…。気を利かせて遊びに誘えば、ありがた迷惑だったなどとの陰口。差し入れなどもっての他。「強制されているみたいで迷惑」だと言う奴まで現れる。
 自由気ままに自分の世界だけで仕事をしているから、こっちの善意まで悪になる。
 それがいつしか恨みにまで発展して、裁判にまでなった事がある。ありもしない事をでっち上げられ、俺が会社内で女性従業員にキスをしたり、胸を触ったりの異常なセクハラと暴力、まるで極悪人かのような訴えだった。裁判は当然完全勝利だったが、呆れてこっちがバカ負けしたような気分だった。

 アニメ界は伏魔殿。得体の知れない魔物がいる。
 ごく普通の人間がこの世界に入って来ても、弱い人間は飲み込まれて、ゾンビのような人間になっていく。
 そんな人間を今まで数多く見てきた。
 アニメーターという職業は、毎日何時間も机にかじりついて仕事をする。
 ほとんど会社とアパートの往復だけで、それ以外の日常はあまりない。
 仕事だけにのめり込み、いつしか一般常識さえ失われ、アニメゾンビのような人間になっていく。それでも通用してしまうのが、アニメーターだ。

 アニメーターはもちろん実力の世界だ。実力があれば、それなりに這い上がれる。だが多くの人間は、低賃金と、過酷な労働と、実力の壁にぶち当たって藻掻き苦しみ、いつしか孤独になる。
 弱い人間ほど、己の未熟さを他人のせいにして、会社が何もしてくれない、先輩方がろくに教えてくれないなどと、悲劇のヒロインを演じて心を閉ざしてゾンビのような生き物になっていく。
 この仕事を続ける限り、誰だって壁にぶち当たる。それを乗り越えられないで、心を閉ざしてゾンビのような人間になっていく。
 
 俺は、自分をアニメーターとして二流だと認めた時点で、先が開けた。(大した先じゃないけど・・・)