心の闇
電話の主は某大手プロの制作の竹上さん(仮名)だった。
竹上さんの話によると、事件を起こした下請けプロの主だったスタッフが逮捕されてしまい、スタジオが右往左往しているとのことだった。
竹上さんは問題を起こした会社と取引関係もあり、仕事が遅れる事を心配していた。
そこで内情に詳しい俺に事後処理をして欲しいという依頼だった。
依頼を引き受けた俺は、すぐさま上京して現場に向かった。
そのスタジオに到着すると、案の定新人達があたふたしながら仕事をしていた。
マスコミからの電話がひっきりなしにかかってきて、その対応に四苦八苦していた。
スタジオに残された10代から20代前半の若者達に、大人の対応は無理だった。
「お前ら、とんでもない事していながら、取材にも応じられないという事はどういうことだ」
スタジオ内は仕事も遅れ、取材を受け入れる余裕さえなかった。
そしてマスコミのありとあらゆる罵詈雑言に、ただただ詫びることしかできなかった。
当時人気番組だった「ウィークエンダー」からの取材申し込みもあったが断った。そのウィークエンダーと言えば、現在女優の「泉ピン子」がリポーターの一人として人気を得ていた。
当時の泉ピン子は、まだイロモノ的な扱いで、現在の女優としての位置付けは皆無だった。
けっこうシモネタも多く、今で例えるなら、さしずめ「久本雅美」と言ったところだろうか…
事後処理を引き受けたものの、仕事以外の雑用も多く、会社に1ヶ月以上寝泊まりするハメになってしまった。
さて事件の核心に触れよう。
その後の独自調査でわかったことは、事件の原因は一言で語るなら、閉ざされた空間のマインドコントロールと、集団ヒステリーだと俺は結論付けた。
俺は事件後に被害者のMさんからも事情を聞いた。
出所した加害者達からも事情は聞いたし、事件現場を目撃したスタッフからもこと細かく話を聞いた。
原因は些細な事の積み重ねから始まった。「Mのゲップが下品で不快だ」「日常の態度が気に入らない」…
アニメ現場は閉ざされた空間だ。
特に下請けプロは毎日同じ人間達だけと顔を突き合わせて仕事をしている。
仕事のプレッシャー、上達しない自分自身へのイライラ、対人関係、そのうえアニメーターは食えないといった最強のストレスも溜まる。
真面目でおとなしい人間ほどそれをどんどん貯めていく…特に弱い人間はそれに耐えられない。
毎日繰り返されるそのイライラが頂点に達した時に危険がやってくる。
そして誰かがスケープゴートを見いだした時、その流れは瞬く間に広がる。
閉ざされた空間の中では、個人の小さな悪が巨大な悪に肥大していく。
それが集団になるとそれが正義と思い込む。
加害者達にとってのMさんは、もはや人間ではなく「悪魔の化身」になっていたのだった。
まるで昔の連合赤軍のような、恐ろしい魔物に取り憑かれたかのような現象だったのだろう。集団は無敵になり、加害者達にとっては正義の裁きになった…
身の危険を感じたMさんが、退社願いを申し出た時に加害者達の悪しき怒りが爆発した。
「逃がしてなるものか」
集団での容赦ない顔面へのパンチの雨あられ、怒号が交差しあう中、頭から水を浴びせた女もいたようだ。
事件後にMさんのアパートを訪ねると、寝たきりのMさんの傍らには、熊本から駆けつけたお母さんが心配そうに看病していた。
Mさんの顔はドス黒く変色して、倍ぐらいに膨れあがっていた。そして瞼は完全に塞がっていた。
それと枕元にはもう一人、Mさんの彼氏Xだった。XはMさんと同じスタジオの同僚アニメーターだった。
Xは加害者達とは大学時代からの友人同士でもあり、同期入社という親密な関係でもあった。
そしてXは事件の現場に居た一人だった。
自分の彼女が、親友達に暴行されるのをなす術もなく目の前で目撃した。
もちろん止めに入ったようだが、多勢に無勢…オロオロするばかりで自分の無力を悔いていた。
首をうなだれてそう話すXの体は震えていた。
この事件の加害者達を幼稚で、世間知らずと言ってしまえばそれまでだが、真面目で純粋な若者ほど、危険でカルト的な宗教に陥りやすい…
この事件もそんな匂いを感じた出来事だった。
事件当時の彼等は完全におかしかったし、心も精神も病んでいた。
事件が落ち着いた頃、俺はいくつかのマスコミの取材にも応じた。
当時の週刊誌で「事情をよく知るYさん」として登場した事もあった。
だが真実は話せなかった…加害者達をかばう心もあって、当たり障りのない話に終始した。
そしてこの事件は「喧嘩の類」で幕を閉じていった。
この事件の加害者達の中には、今では有名なアニメ監督もいる。
悔いる者もいれば、未だ反省もなく置かれた状況や他人のせいにする者もいる。
そして今でも精神が病んでる人間もいる。
そんな彼等も最初はアニメーターの雑草として、純粋に戦っていた。
貧困にあえぎながら「上手くなりたいんです」、「いい物を描きたいんです」そう言って目を輝かせてた姿を俺は知っているから…
ただひとつ、この事件で忘れられない思い出がある。
会社に1ヶ月以上も寝泊まりしていた俺は、同棲中の彼女のもとには帰れなかった。
彼女が電話で繰り返す「お願いだから帰ってきて」の哀願にどうすることもできなかった。
その結果、彼女はバイト先の店長とデキてしまい、別れるハメになってしまった…
結納も間近だったというのに、とんだオマケまで付いてしまったのだった。