別世界・センテスタジオ
Oさんと久々の再会を果たした頃、知人の紹介で「センテスタジオ」という会社の動画チェックをやることになった。
センテスタジオは、東北新社が全額出費して出来た会社とのことだった。名前の由来は、当時の社長が「これからはアニメの時代だ! 打って出るには先手必勝だ!」ということでセンテスタジオになったらしい。
そのセンテスタジオが放つ第一作のオリジナルビデオ作品は、夢枕獏原作「アモンサーガ」
センテスタジオは荻窪にあり、俺の所からは自転車で通える距離だった。仕事は動画チェックだけだったので、毎日自分の仕事の合間を縫ってセンテスタジオに通った。他に自分の仕事もあるため、センテスタジオに常駐しなくてもいいのが魅力だった。
センテスタジオはビルの二階と三階のフロアを貸し切り、アニメスタジオとしては綺麗な印象だった。動画机も白の新品で普通の動画机よりもやや大きめだった。東北新社がアニメに力を入れる気迫がそんな所からも感じられた。
だが制作スタッフの人達は全くの素人だった。東北新社から突然派遣されたのか、アニメに関わる知識は乏しかった。そこで元東京ムービーでルパンのプロデューサーだった仙石さんを招いて、総指揮を執ってもらうことになっていた。だがその仙石さんは、ほとんどスタジオに顔を見せず、作品が終わる頃にはいつの間にか姿を消していた。
頼みの綱がいなくなって、仙石さんの代わりに頑張っていたのは、東北新社から出向して来た河井さんだった。
河井さんは俺と同い年で、とても几帳面で真面目な人だった。商社マンで人との応対も紳士的で、俺たちアニメーターとは住む世界が違うような人物だった。
会話するにも背筋をピンと伸ばし、直立不動で両手を体の前に重ねて立っていた。こっちの話を聞き逃すと、「はあ?」と小首をかしげて、まるで執事のような仕草だった。
仕事をしていると、ツカツカ歩み寄って来るや、
「柳田様、奥様からお電話でございます」
なんていうのもしょっちゅう。
「河井さん、やめてくださいよお〜、そんな風にやられたらこっちが困っちゃいますよお〜。もっとざっくばらんにやってくださいよ」
と俺が言うと、
「そのような事をおっしゃられましても、私ども東北新社の人間は、研修時代からこのように教育を受けておりますものですから私といたしましては・・・」
いつもこんな会話になってしまう。
今までアニメ界にはこういった人種はいなかったし、見たこともなかった。そんなセンテスタジオはアニメ界とは異色の空間だった。
センテスタジオのように紳士的で、マナーも備わった制作の人間は、アニメ界の現場にはまずいない。少し話はずれるが、まだアニメがセルの時代だった頃、「百獣の王ゴライオン」というロボットアニメで第一話が完成した時に、制作会社が火事になり、第一話の原画も動画も全て全焼してしまった。
ところが、制作の人間が第一話を発注した会社に電話で、
「第一話が火事で全部焼けちゃいましたから、また同じ物を全部描き起こして下さい」と軽い対応だったから、その会社の社長はカンカン。
火事で焼けてしまったのは仕方ない。でもアニメーターにとって同じ物を描くということはどれだけ苦痛を伴うのか分かってない。それも精魂込めた第一話だ。それを電話一本で軽く言われたら、たまったものじゃない。そんな怒りの話をそこの会社の社長から聞かされた。
時が流れて、ある大手のプロデューサーと酒を酌み交わした時に、その話に俺が触れた。
「マヌケな制作でしょう? 普通は出向いてお詫びしてから再発注すればいいのに、電話一本で軽く言うなんて、そいつの顔を見てみたいですよ」
俺がそう言うと、そのプロデューサー氏は下を向いてしまった。
しばらく間があった後、
「その電話したのは・・・、私かもしれません・・・」
とうつむきながらボソリと言った。
まずい事になった。そのプロデューサー氏は、昔そこの制作会社で働いていたとの事。その晩は酒の肴でマヌケ話で盛り上がろうと思っていたが、それ以来気まずい空気になって、その晩はあまり盛り上がらない酒の席となってしまった。
センテスタジオに話を戻すと、意気込みとは違ってどこか歯車が狂ってしまったのか、やはり、もち屋はもち屋と言うべきなのか、一流企業のセンテスタジオは第一作のオリジナルビデオが完成すると、幕を閉じた。