吉田竜夫の秘蔵っ子



 その頃、久しぶりに葦プロの作画監督だった田中保さんと再会した。田中さんはすでに葦プロを辞めて、俺と同じくフリーで仕事をしていた。
 その田中さんは、本当に無口だった。映画に出てくる高倉健さんみたいに、ほとんどしゃべらない。話しててもボソボソと話すため、何を言ってるのかよく聞き取れなかった。話を二度までなら聞き返せたが、三度目となるとさすがに聞きづらく、笑顔で分かったふりしてごまかした。葦プロにいた頃は苦手で、どちらかというと嫌いな人間だったが、お互い葦プロを辞めた後によく交流するようになった。
 田中さんはタツノコプロ出身のアニメーターで、吉田竜夫さんによく可愛がられたそうだ。吉田さんと田中さんは京都出身で、父親同士が親友だったらしい。そういった縁でタツノコに入社して、アニメーターとして育った。吉田さんには本当に可愛がられたようで、何か新しい企画があると、吉田さんと二人っきりで温泉にこもって、キャラクターの性格付けなどを話し合ったそうだ。「みなしごハッチ」は田中さんの得意キャラだったらしく、当時の話をよく聞かせてくれた。
 昔のタツノコ作品のイメージは、なぜか「父」のイメージが強かった。「紅三四郎」は父の敵を討つために旅をする話だったし、「宇宙の騎士テッカマン」の主題歌では、「父の名呼べば」
というフレーズもある。その事を田中さんに訊ねると、吉田さんは早くお父さんを亡くしたから、父親に対する思いが強かったんだと思う、と言っていた。
 その後、葦プロの発足と同時に、葦プロに参加した人物だ。ちなみに葦プロの社長の佐藤さんや、プロデューサーの加藤さんもタツノコ出身だ。
 田中さんは若くして、タツノコで吉田さんに重宝がられたためか、プライドが非常に高かった。葦プロ時代も、自分は「特別」なんだというオーラを出して仕事をしていた。そしてラッシュも一切見なかった。俺が「どうして見ないんですか?」と訊ねた時の田中さんは、「俺は作監修正しているから、見なくてもわかるんだ」という言葉が返って来た。
 そんな田中さんは、いつも昼過ぎに出勤して来て、机に座っている時間はせいぜい二、三時間。あとは会社内をウロウロしたり、外に散歩に出かけて、夜の六時になると姿がなかった。
 作監修正も、ほとんど顔しか修正しなかった。外注の原画マンが描くキャラクターが似てないと、演出の湯山さんに怒った。
「なんでこんな原画にOKを出すんだ! 演出って何をする仕事だ!」
 困惑した表情の湯山さんが、
「演出は、主に演技を見たりする仕事です・・・」
 と答えると、
「これで見てるのかねえ」
 と、吐き捨てる田中さん。
 葦プロ時代の田中さんの仕事に対する姿勢は、俺には単なる手抜きにしか見えなかった。

 田中さんが葦プロを辞めた後、「仕事を紹介してほしい」という話があったので、何度も仕事を紹介したが、長く続かなかった。原画の打ち合わせで、面倒なカットがあると、退席してしまう。または、「こんなめんどうなコンテ描いて、演出はアニメーターの事を考えてない。だったら演出に原画を描かせろ!」と言って、作品を降りてしまう。
「そんな宮大工みたいな仕事したら駄目ですよ」とやんわり何度も注意したが、分かってもらえなかった。そしていつも俺が尻ぬぐい。
 そんな事が何度も続いて、しまいに俺がキレてしまった。電話で田中さんをメチャクチャ罵って、罵詈雑言の嵐。それが田中さんとの最後の会話になってしまった。
 田中さんは人付き合いが苦手で、変わった人物だが、心は純粋な人だった。後に俺の子供が生まれる前日に、二人で飲み明かして俺を祝ってくれた。
 その夜、スナックで一人の中年男性と意気投合した。田中さんがその男の求めに応じて、スラスラと「みなしごハッチ」の絵を描いた。
 するとその男、目から大粒の涙をボロボロこぼして嗚咽・・・。
「僕は片親で育ったから、『みなしごハッチ』が大好きだったんです・・・」
 遠い過去を思い出すかのように、全身が小刻みに震えていた。その姿を見て、嬉しさと悲しさが交錯するような、不思議な感情だった。

 田中さん曰く、
「最近のアニメは影が多すぎる。俺は必要以上に影は付けない。影は絵をごまかす作業なんだ」
 そう唱える。それは一理あるし、気持ちはわかる。俺たち雑草アニメーターは、歯車のひとつ。それを押し通せば、仕事にならなくなる。
 俺も含め、田中さんも過去のアニメーターなのかもしれない。今のアニメ界は、絵の流行り廃りで動いている部分もある。でも、時代が変わっても、変わらないものがあるはずだと、そう信じている。

 フリーで仕事を続けるという事は、孤独だ。毎日が締め切りで、自宅作業の俺は会話する人は妻ぐらいしかいなかった。そんな生活が続き、気がつくと四十才を過ぎていた。
 そして、突然諦めていた子供の誕生。それと同時に自分自身に焦りが芽生えた。安定した職業を求め、一度アニメを辞めてNHKの営業の仕事に就いたが、三ヶ月しかもたなかった・・・。
 それまで何十年もアニメの仕事を続けてきた男は、営業には向いてなかった。
 そんな時期に、古巣の会社の社長から「ウチに来てみないか?」という誘いがあった。
「せっかく長年アニメを続けてきたんだし、ウチで新人達の指導をしてくれないか?」
 その言葉に甘えて、俺は今いるスタジオに戻って来た。まだ現役の動画マンといて、今も新人達を教えている。