ビンボーとの出会い

 

   振り返ってみると、いつからかアニメーター気質というものが変わってきたような気がする。俺も含め、昔の雑草アニメーター達は、みんなバカだったけど、もっと元気があった。ドンキホーテのような、デタラメで無謀な元気があった。

 今も昔も永遠に変わらないもの。それは多くのアニメーター達が超貧乏だという事だ。

 俺がアニメの世界に入ったのは、昭和四十年代の後半。テレビでは「マジンガーZ」などがオンエアされていた。
 初仕事は「ゼロテスター」という作品だった。創映社という会社の作品で、創映社は現在はサンライズスタジオと社名を変えている。その下請けのアニメ会社がオレのアニメ生活のスタートだった。
 高校を中退してこの世界に飛び込んだオレにとっては、全員年上の先輩ばかりだった。田舎から単身上京したての十七才の少年に、先輩達はみんな優しくしてくれた。初めて見た先輩達の動画の清書は、まるでペンで書いたように思え、衝撃を受けた。

 オレが入社した会社は、当時西武池袋線の桜台駅の近くにあり、オレの借りたアパートからは徒歩十分ぐらいの距離だった。
 近くに「ラタン」という喫茶店があり、石ノ森章太郎さんが窓際の特別席で時々仕事をしていた。本人がいない時は『石ノ森章太郎様ご予約席』のプレートが置かれていて、誰も座ることはできなかった。
 駅近くには、「みなり」という喫茶店もあり、オーナー兼マスターは東映の大部屋の役者さんで、従業員は東映の養成所の役者で、中には特撮の「ロボコン」の着ぐるみの中に入っている役者さんもいた。
 後に「宇宙戦艦ヤマト」を制作したオフィスアカデミーも桜台の駅の近くのビルに居を構えた。

 俺が借りたアパートは六畳一間で家賃が一万円。もちろん風呂はない。その他雑費、鉛筆代等の文具は自分持ちだった。新人時代の動画一枚の単価は五十円だった。当然生活はキツいわけだが、十七才の田舎者の少年にとっては、お金の事など眼中になく、都会の一人暮らしに期待と夢だけが頭の中を支配していた。
 当時の物価は、ハイライトが一箱八十円。玉子丼が二百五十円。カツ丼が三百円。定食が二百五十円といった物価水準だった。近くに牛友チェーンというカレー専門店があり、百円でカレーが食べられた。その店は毎週水曜日に半額券をくれるので、次回に行った時は五十円で食べられた。

 切り詰めて自炊しながらなんとかしのげば、ギリギリの生活は出来たのだが、好奇心旺盛な少年にとっては無理な問題だった。金はすぐに底を尽き、二十日ぐらいで一文無しになった。残りの十日は水と、会社にあるインスタントコーヒーやお茶などで、何とか生きていた。
 あまりの空腹に、会社の台所の三角コーナーに捨てられていたお茶の出がらしに砂糖をかけて食ってみた時もあったが、空腹には耐えられなかった。

 そんなある日、同じアパートに住む女の先輩がチャーハンを作って差し入れしてくれた。飛び上がる思いでお礼を言って、ドアを閉めて振り返った瞬間、段差のある敷居に蹴つまずいて、チャーハンは畳の上に舞った。
 慌てて手で全部かき集めて食った。口の中から鉛筆の芯や、髪の毛、その他様々なゴミを指で掻き出して食った思い出もある。

「おまえ、オレのアパートに遊びに来いよ」
 先輩のSさんが声をかけてくれた。Sさんは俺より二才上の十九才だった。初めて後輩ができた嬉しさからか、Sさんは先輩達の中でも一番俺に声をかけてくれた。
 新潟出身のSさんは、細身で前歯が一本欠けているのが印象的で、新潟なまりなのか、ちょっと話が聞きづらかった。
 Sさんのお言葉に甘えて、早速アパートについて行った。お世辞にも綺麗とは言えない、四畳半のボロアパートだった。Sさんはかなりご機嫌で、色んな話を聞かせてくれた。
「ところでSさん、社長からデッサンは重要だから毎日するようにって言われましたけど、Sさんはどんなもの描いてるんですか?」
 オレが訊ねるとSさんは、
「んん? ・・・デッサン? まっ、オレはデッサンはもう卒業したからなあ・・・」
 得意そうに答えた。??? ・・・なんか話が変だ・・・。
 その後もSさんの話は続いたが、話の内容はいかに自分がアニメーターとしてスゴイかの自慢話だけに終始した。
 
 そんなSさんはちょっとヌケてるというか、純粋すぎて子供みたいな先輩だった。一緒に喫茶店に入ると、まずSさんはおしぼりで顔を拭く。そして丹念に首の周りを拭いたあと、手を拭く、そして最後に片足ずつ足の裏を拭くのだ。コーヒーカップを手に取ると、
「マズンゴー! パイルダー、オオ〜ン!」
 などと新潟なまりでおどけながら、
「おまえ、マズンガーゼットって、かっつぉいいよなあ」
 と大きな声で話しかける。
「オレ、あすたのぞぉ〜(あしたのジョー)も大好くなんだ」「るくうし(力石)もいいよなあ・・・」
 俺が、「アレ、Sさんはブルースリーもかっこいいって言ってたじゃないですか」などと言おうものなら、
「アツォ〜! ヒャッヒャッヒャ! アツォ〜!」
 などと周りの目も気にせずやってしまう・・・。


 ある日会社で仕事をしていると、
「うお〜っ!」
 Sさんが大声で叫んで、凄い勢いで椅子ごと後ろへ後ずさりした。何事かと思ってSさんの机に言ってみると、動画机に一匹のゴキブリ。
 なんだゴキブリかと思ってSさんの顔を見ると、Sさんは椅子に座ったまま震えている。「バン!」俺は手のひらでゴキブリを叩き潰して、ゴキブリをつまんで窓の外へ放り投げた。
 Sさんと目が合うと、その目はオレに対して尊敬するかのような眼差しだった。
 田舎育ちの俺にとっては何でもない事だった。子供の頃、よく山へ入ってカブトムシやクワガタを捕まえた。時々木々に集まるクワガタのメスと間違えてゴキブリを捕まえていたので、ゴキブリ程度では全然平気だった。そんな俺は今でもゴキブリに遭遇すると、パンチか平手で叩き潰す。ゴキブリを叩くのに、いちいち新聞紙を丸めていたらその間に逃げられてしまうからだ。

 当時の下請けの作画スタジオは、どこの会社でもピラミッド形式のようなシステムが主流だった。頂点に作画監督がいて、その下に原画マン、動画マンといった具合に、統制が取れていた。そして作画監督を中心に、どちらかというと師弟関係の色合いが濃かった。
 そうして各プロダクションが腕を競い合っていた。○○プロに負けるな!といった具合に刺激しあって作画していた。
 当時の各プロダクションの作画体制は、三十分のアニメで十人ぐらいのアニメーターでまかなっていたと思う。作画監督を頂点に、原画マンが三〜五人で、動画マンが五、六人で作画していた。腕のいい人になると、番組一本のアニメの原画を一人で描く人もいた。
 現在のように多くの外注にバラ出しして一本のアニメを作るということはほとんど無かった。個々の各作画プロダクションに、三十分の原動画が任されていた。現在のような第二原画というシステムもまだ確率されてなく、原画マンは作画監督の指導の下、レイアウトから原画を描いていた。
 そういったシステムだったため、組織として、また仲間として、それなりに強い絆があった。

 今のアニメーターはドライな人間も多く、違った意味で徹底している。
 ある原画の女の子がN君という先輩原画マンに面倒を見てもらっていた。そしていつしか原画のレベルもN君を抜いてしまった。すると俺のもとへ来て、
「私はNさんみたいなレベルの低い人間と同じ仕事をするのは嫌です。Nさんとは違う仕事を入れてください」と言ってきたのだ。道義的にもそれは言うべき事じゃないし、仕事としてもおかしい考え方だと注意したが、
「アニメ界は実力の世界じゃないですか! 本当の事を言って何がいけないんですか!」
 と怒り出した。男だったらぶん殴ってやったが、その女はすでに殴られたような膨れあがった顔だったので、無駄な事は辞めた。
 その後、その女は退社して、別のアニメ会社へと移って行った。

 俺の新人時代のスタジオは団結力があり、家族的な面もあった。仕事が終わると色んな話で盛り上がった。社長の気に入った映画などがあると、社長の鶴の一声で、その日は急遽全員で映画鑑賞なんてこともあった。

 そうして毎日楽しく過ごしていたが、ビンボー生活は相変わらずだった。東京に出てきて俺が一番苦手だったのが、銭湯。田舎育ちで、見知らぬ人たちと一緒に風呂に入るなどというのが恥ずかしかったし、風呂代を払うぐらいなら何か食っていた。
 そんな理由から銭湯嫌いの俺は、風呂に入るということを忘れていた。というより、拒否していた。するといつしか、長髪だった髪がゴワゴワしてきた。
 ある時会社に遅刻しそうになって走り出すと、頭の上が変だということに気づいた。走ってるのに長髪の髪は全然なびかず、まるで頭に被ったヘルメットがパカパカ上下運動しているだけだった。それでも銭湯は拒否した。
 三ヶ月後、腕の毛が一本も無くなっている事に気づいた。驚いて見てみると、確かに毛は一本も生えていない。そこで食い入るようによく見てみると、腕に黒い点々が無数にある。恐る恐るピンセットでつついたり引っ張ったりしてみると、なんと毛が丸まって腕の皮膚にめり込んでいるということが分かった。
「大発見」人間は三ヶ月も風呂に入らないと、体毛が丸まって粒状になって皮膚の中に隠れるのだ。
 疑問のある人はお試しあれ。