若者集団・葦プロダクション

 

 その後の俺は、葦プロの仕事を一人アパートで黙々とこなしていた。動画が出来上がると葦プロに持って行き、次の日の動画をもらってまたアパートに戻るといった繰り返しだった。
 十七才から動画を始めてから、すでに月日は五年が経過していた。五年の経験は、動画をする上での効率やコツなどもつかめていたので、枚数はそれなりに上がった。一日六十枚ぐらいは描いていた。
 その頃、葦プロでは新番組の「戦国魔神ゴーショーグン」というロボットアニメが決まり、そのオープニング動画を一人で任されていた。アパートで一人黙々と作業して、四、五日で終わったと記憶している。
 そのうち葦プロから社内で仕事をしてくれという話があり、葦プロで仕事をする事になった。身分はあくまでも社員ではなく、ノルマ制のフリーアニメーターとしての扱いだった。
 結果的には、その方が良かった。当時の葦プロには現在ポケモンの総監督の湯山さんや、現在イラストレーターのいのまたむつみさんが社員として働いていたが、十万円以下の給料だった。かえってフリー扱いの俺の方が収入が多いという変な状態だった。

 当時の葦プロは、杉並区の今川という場所にあり、中央線の西荻窪と西武新宿線の下井草のちょうど中間に位置し、どちらの駅から歩いても二十分ぐらいはかかった。みんな社員は駅から歩いて通勤していた。
 葦プロは住宅地にあり、ごく普通の住宅を借りていたため、外から見ると初めて行った人は会社とは思えず、通り過ぎてしまうこともあった。周りには畑もあり、のんびりした雰囲気の場所にあった。一階が事務所と制作室。二階が編集室と色指定、演出にまじり、数人のアニメーターがいた。俺があてがわれた机は、制作室の隅にある机だった。隣には演出の机が二台あり、外注の演出さんと社員である演出の大庭さんが使っていた。
 また、当時「にしこプロ」に在籍していた演出の西村純二さんも葦プロ作品に関わっていたため、葦プロでよく仕事をしていた。今では監督としてアニメ界では名を知られる西村さんも、まだ若かった。毎日原付のボロバイクで葦プロに通っていた。

 それから俺は葦プロの制作室の片隅で動画をしながら、動画チェックの仕事をすることになった。
 そんな葦プロは若さで溢れていた。社長やプロデューサーを除けば、ほとんどみんな二十代の人間だった。
 現在脚本家で活躍中の武上純希さんも、山崎正三という本名で編集の仕事をしていた。山崎さんも当時は貧乏で、アパートに遊びに行くと、テーブルの上には大量のゆで卵が置いてあった。
「ゆでたまごは長持ちするでしょ、だから僕はいつも給料が入るとゆで卵をいっぱい作るんです」
 そう言って笑った。
 そんな事情を知らない制作デスクが山崎さんのアパートに来た時、大量のゆで卵を目にして、
「おっ! 山崎いいの食ってるな、一個くれよ」と失敬したところ、山崎さんは烈火の如く怒ったらしい。
 現在イラストレーターのいのまたさんは、当時新日本プロレスが大好きで、休みの日はよく見に行っていた。
 現在ポケモンの総監督の湯山さんは、当時は無口ながらも黙々と楽しそうに机に向かっていた。イメージ的には口数の少ない所ジョージといった雰囲気だった。
 社内はいつも明るく、制作の人間も編集の人間も仲が良く、会社全体が明るくひとつにまとまっていた。

 葦プロの近くには「泥棒市場」という激安雑貨店があって、葦プロの人間は皆その店をよく利用していた。ある朝、次々と出勤してくる人間に、
「ああっ! そのスリッパ泥棒市場のヤツでしょ!」
 と言われて演出の大庭さんが、
「まいったなあ、今日これで五回も言われたよ」

 とバツの悪そうな顔をしていた。
 その大庭さん、いつもストップウォッチを片手にセリフを言っていた。男のセリフならまだしも、時々女のセリフが図太い声で聞こえてくるので、苦笑しながら仕事をしていた。

 仕事では「戦国魔神ゴーショーグン」の動画を描きながら、動画チェックをこなす毎日だった。そのうち原画を描いてみないかと言われ、ヘタクソながらもチャレンジした。ゴーショーグンの発射シーンのバンクは俺の原画だったが、大事なシーンになぜヘタクソな俺が、と思いながらも描き上げた。
 プロデューサーの加藤さんから時々版権の仕事なども回してもらい、子供向けのまくらカバーなどのイラストも描いていた。
 俺と違って、いのまたさんは上手かった。特に敵の美形キャラが得意で、時々演出の湯山さんの指示で、美形キャラは作監を通さず内緒でいのまたさんが原画を修正していた。
 もちろん俺の原画もいのまたさんに直されていた。いのまたさんが帰った後、いのまたさんの机の上に俺の原画が・・・。
 ちょうどそこへ演出の湯山さんが通りがかって、「バレちゃいましたか」と言って苦笑い。
 そんな湯山さんも絵が上手く、演出になる前は原画マンだった。タツノコプロの「一発カン太くん」などの原画を描いていたらしい。
 ある日、仕事をしていると湯山さんが俺の耳元で、
「お金渡すと全部使っちゃうんですね」
 と言ってニヤリと笑った。
「???・・・」
 後で聞いてみると、当時俺が付き合っていた葦プロの女の子に「チョコレート買ってきて」と千円札を渡したら、なんと千円分のチョコレートを買ってきたらしい。そのマヌケな女の子は現在俺の妻である。
 でも、もし湯山さんが千円札じゃなく、一万円札渡してたらどうなってたんだろ・・・怖い。
 ゴーショーグンの原画を描きながら動画チェックをしていた頃、外注の動画を描く女の子で、ひとりプライドが人一倍強いTという女の子がいた。
 とにかくヒドイ動画を持ってくるのでリテークを出しても、非常にプライドが高くなかなか納得しない。とにかく食って掛かってくる。
「あれ? この動画、原画と違うよ」
 驚いた俺がそう告げるとTは、
「はい! 作監の修正がお粗末なんで、私が修正しました」
 ヌケヌケとそんな事を言う。まずいことにたまたまその話数の作画監督のOさんが俺の隣で仕事をしていた。
 しかしOさんは笑顔で、
「作監のOです。どうも申し訳ありません」
 と頭を下げた。
 するとTは、Oさんを一瞥すると、
「いいえ、どういたしまして」
 無表情で答えた。
 でもそれは決して許される事じゃない。Tは納得しなかったが、俺はリテークを出した。Tが帰った後、俺は制作の人間を集めて、二度とTには仕事を出さないように伝えた。
 それから一年後、知り合いの演出のM君から連絡があった。
「Tって知ってる? 葦プロで問題起こした奴・・・。アイツ今、○○プロで原画描いて問題起こしてるんだ・・・」
 ○○プロは大手の元請け会社で、M君はそこの作品の演出をしていた。
 M君が続けた。
「アイツ、ヘタクソな原画描いてばかりで、作監からリテークばかりもらってる。ところがアイツ、プライドが高くて、これは私の腕を妬んだ作監の嫌がらせだと大騒ぎ。挙げ句の果てに○○プロの一室乗っ取っちゃったんだ。部屋のドアには、ご丁寧に○○プロ内Tプロダクションというプレートまで掲げてる」
 唖然・・・。
 M君の話によると、驚くことにTに同調する女がもう一人いて、Tと二人でその部屋を乗っ取って使ってるとのこと。
 プライドの高いアニメーターは数々見てきたけど、ここまでの奴はいなかった。その後○○プロ内Tプロは仕事も回してもらえず、二人は去ってったとか。
 アホアニメーターのTに、お粗末な絵などとトンデモない事を言われた作画監督のOさんは、本当に愉快な人だった。ベテランのアニメーターで、演出も出来る器用な人だった。いつも豪快に笑って、周りを和ませていた。
「ドカーン! バカーン!」
 とOさんが原画を描きながら叫んでる。俺と目が合うとニコッと笑いながら、
「原画に迫力が無いから、せめて声だけでも迫力だそうと思って」
 などと、お茶目な人だった。

「Oさん、今日俺が奢りますから、酒でも飲みませんか?」
 ある夜、そう言うとOさんは目を輝かせて、
「いいですね。・・・でも今日アップだし、プロデューサーの相原さんが見張ってるし・・・」
 しばらく考え込んでいたが、お酒に目がないOさんは、「行っちゃいましょ」と言うと、素早く身支度。プロデューサーの相原さんの目を盗んで、葦プロを抜け出した。
 外の冬は寒空。二人で震えながら途中まで歩くと、Oさんは忘れ物したと言って葦プロにUターン。しばらくするとOさんが戻ってきたが、背広を着ていない。Tシャツのまま震えながら戻ってきた。
 そして、
「背広を椅子にひっかけとけば、プロデューサーの相原さんも飯でも食いに行ったんだろうって思うでしょ? 一応小細工して来ました」
 とウインク。
 その日は仕事をすっぽかして朝まで飲んだ。当然その夜は葦プロ内で大騒ぎだったらしい。
翌朝、「お前がしっかり見張ってないからだ!」と進行の東洋がプロデューサーの相原さんから大目玉。丸めた本で、頭を何回もボコボコ殴られていた(東洋、ごめんな)。
 翌日の夕方、ケロッとした顔で現れたOさんは、プロデューサーの相原さんから軽い小言。それでもベテランでお茶目なOさんは許されてしまう。