ぎゃろっぷ作画班スタート

 
 
 当時のスタジオぎゃろっぷは、撮影専門の会社で作画班はなかった。そこで作画部も作り、ゆくゆくは親会社として発展したいという会社の構想だった。
 制作デスクには元葦プロの木村さんがいるとの事だったので、昔のよしみで引き受けた。
 スタジオぎゃろっぷは練馬区の西武新宿線
の関町にあり、作画班はその近くにスタジオを借りてあるとの事だった。
 ところが、いざスタジオに行ってみると驚いた。スタジオとは名ばかりで、バラックの材木置き場の二階。一階は材木やら何やら変なもんが山のように積まれていて、周り
は草ボウボウの空き地・・・。  スタジオというよりも、昔にタイムスリップしたような。職人さん達の飯場みたいな建物。トタンに囲まれた、ボロボロの外階段を上がって行くと、そこがスタジオ。
 二階にはトイレもあるのだが、汲み取り式の「ドッポン便所」だった。
 便器を上から覗くと底深く、水溜まりが見える。そして驚くような臭気!! 救いと言えば、二階なので用を足しても「おつり」がこないというぐらいだった。
 二階は十畳ほどのスペースが作画班、三畳ほどの部屋は制作室として使っていた。
 小さな流し台、汲み取り式の便所。お世辞にも「汚い」とさえ言えない超ド級のオンボロスタジオだった。

 スタジオぎゃろっぷの作画班は、少人数のスタートだった。社長の若菜さんがどこからか四人の青年を集めてきて、その他に制作デスクの木村さん、進行の小板橋君の計六人だった。
 新人の青年四人は、トレス線さえまともに引けない全くの素人だった。
 そんな動画スタッフだったから、最初はリテークの山・・・。当時の仕事は他社から色んな作品をもらって凌いでいた。「スプーンおぼさん」「伊賀のカバ丸」「パーマン」などなど・・・。
 動画マンも素人だったが、社長の若菜さんも作画に関しては素人だった。
 ある時、カンカンに怒って若菜さんが作画班にやって来た。若菜さんの話によると、ある作品の作画監督から質の悪さでクレームが来たらしい。若菜さんは怒り心頭で、
「あの野郎、ふざけやがって、そんなちっちぇえ事どうでもいいだろ! 動きが悪いだの何だの言ってきやがって! そんなの見たって0コンマ何秒の世界だ! そんなのいちいち気にしてたら仕事にならねえ! 見てみろ、『日本昔話』なんか俺のところで撮影してるけど、8コマ撮りだってあるんだ!」
「・・・」
 何も言葉が出なかった。
 コマ送りのように動くアニメと、細やかに動くアニメの違いもあまり理解してないようだった。

 そんな社長だったが、若菜さんは明るく面倒見のいい、大らかなどんぶり勘定気質の人だった。
 突然作画スタジオに現れて、「君らに小遣いあげるよ」と言って全員に封筒を配った。その封筒の中には二万円が入っていた。
 また新人達には当時五万円の給料まで保証していた。月に一万円以下の仕事しか出来ない新人達に対してである。
 当時のアニメはまだセル画の時代。アニメーターと違って撮影は儲かってるんだなあ・・・とつくづく感じたものだった。
 その社長の若菜さん、容姿は志村けんの扮する「ヒゲダンス」のおじさんそっくりで、面接時に女の子が笑ってしまって面接にならない時もあった。それぐらい似ていた。

 若菜さんはアクティブな人で、当時ビッグコミックオリジナルで連載していた「寄席芸人伝」をアニメ化したかったようで、様々な関係先を回っていた。結局それはアニメ化にならなかったが、アニメ用に出来上がったキャラを妻に清書させたことを覚えている。

 ぎゃろっぷは会社というより、どちらかというと家庭的な暖かみがあった。グランドを借りて草野球をしたり、作品の打ち上げなどで撮影スタッフと酒を飲んだこともあった。
 酒が入ると撮影部から作画班にチャチャが入った。
「作画は暗い! 作画は暗い!」
 手拍子をしながら囃し立てられた。
 気持ちはわかる。確かに作画は暗い。撮影班のようにワイワイ言いながら仕事は出来ない。集中すると、みんな無言での作業になる。ミリ単位で線が狂うと、仕事にならないからだ。
 それを撮影班の人間は作画の人間に対して、違和感を感じたのだろう。

 そのうち葦プロの後輩の片田君も、葦プロを辞めてぎゃろっぷに入って来た。
「あのさあ、明日は片田君の誕生日なんだってね?」
 どこでどう聞きつけたのか、社長の若菜さんからの電話だった。
「明日ケーキ持ってくから、片田君の下の名前教えてくんない?」
「はい、片田は貴明という名前です」
 俺がそう伝えると、翌日若菜さんは、たかあきくんおたんじょうびおめでとう、の文字入りケーキを持って作画スタジオに現れた。しかし当の片田は困ったような表情・・・。
「片田、どうした?」
 俺が聞くと、
「俺の名前は敬信っていうんです・・・」
 しまったあ!! 片田の名前を間違えて伝えてしまった。しかし、そんなことは今更言ってられない。
「わかった! じゃあお前今日からたかあきに名前変えろ」
 俺がそう言うと、
「そっ、そんなあ・・・」
 という片田のセリフに一同大爆笑で誕生日を祝った。

 その後、ぎゃろっぷには原画の小和田さん、鈴木さんが入って来た。動画陣には三人の経験者が加わり、体制も整ってきたかに見えた。だが、四人の新人達はあまり成長もなく、学生気分が抜けきれない有り様だった。
 仕事中にわめくような大声で話したり、鉛筆の投げ合いなどもしょっちゅうだった。注意するとその場は収まるのだが、しばらくすると再び大騒ぎ。毎日それの繰り返しだった。
「○○、行っくぞお〜!」
 ギコギコ、ガシャガシャ!
 新人のKが椅子にまたがってカウボーイごっこが始まった。毎日毎日小学生並の大騒ぎに、ついに俺は切れてしまった!
「仕事もろくすっぽ出来ないくせに、毎日毎日この騒ぎは何だ!」
 新人達に罵詈雑言を浴びせて、俺はスタジオを去った。そして二度とスタジオには戻らなかった。
 しばらくはぎゃろっぷの外注を続けたが、再びフリー状態に戻り、他の仕事を続けた。
 その後ぎゃろっぷは、俺が辞めた後は徐々に体制も整っていった。そしていつしか下請けではなく、自社作品を制作するようになっていった。