武士道アニメーター



俺の知人で先輩の尾上さんは、仕事に対して絶対妥協をしない人だった。

そして自分の描く絵に対しても妥協はしなかった。

俺より九つ年上の尾上さんは、その性格も硬派で、まるで武士道精神で仕事をしているかのようだった。

とにかく質のいいアニメを描きたいという一心で、採算を度外視した緻密な絵を書き続けてた。
その真面目な性格とこだわりの絵が災いして、大手のアニメ会社からクレームがきた時もあった。
「オタクの作画は細か過ぎて、毎回仕上げの方から、尾上の仕上げは嫌だってクレームが来てるんだ」と大手の制作担当。
電話でそう言われた尾上さんは大激怒!「じゃあ、○○さんはいい加減な仕事をしろって言うんですか!」と食ってかかる。
まさに手塚治虫の「フィルムは生きている」の主人公を地でいくような人だった。
尾上さんの作業中の姿は、いつも全身から緊張感が漂って、近づくことさえ怖かった。
仕事中は動画机の鏡と、にらめっこしながら、表情を変え、感情移入をしながら仕事をしていた。

今のアニメーターは、頭の中で想像するだけで、顔の表情まで鏡を活用してる人間は少ない。

その尾上さんは何事も真剣。あまりにも激しく、自分の信念を他人にも押し付けるから、なかなか付いていけない。

「男らしくない!」 「死ぬ気でやってみろ!」 「泣きごと言うな!」 「甘えるな!」… などなど、当然自分にも厳しく、絶対に弱音は吐かない。
尾上さんにとって、弱音や甘えは「完全な悪」だった。
ある時尾上さんに聞いた話だが、尾上さんは幼い頃に母親を亡くしたようだ。そして父親には半ば捨てられ、お寺の墓場の脇のほったて小屋で弟と二人で暮らしてた。

いつ帰るかわからない父親を待ち続けながら、弟と二人で食うや食わずの生活だった。

そのあまりの貧乏生活に近所の尼さんが、みるに見かねて時々ご飯を持ってきてくれたそうだ。

中学を卒業したと同時に上京して、アニメの世界に飛び込んだとのこと。
そして残してきた弟の為に、自分の給料の半分は弟に送り続けたらしい。
たぶんかなり自分を追い詰めて、極限状態で仕事を続けていたのだろう。そして本人にとっての仕事は生き抜く手段。

そんな事情を聞いて、俺は今まで怖かった尾上さんの性格が理解できた。
幼い頃から甘えたくても甘えられなかった…強くなければ生きていけなかった…

弱音を吐いたり、甘えてしまったら、おそらく自分自身を保てなかっただろうし、壊れてしまったのかもしれない。だから「甘えは悪」「弱音は悪」だったのだ。
でも尾上さんは本当は甘えたかったに違いない。泣きたかったに違いない。

それから20年ほどしてから、尾上さんと酒を飲む機会があった。

すでに尾上さんはアニメーターを引退していた。まだまだやれたはずなのに40前に引退してしまった。その引退の理由は「腕も落ちてきたし、自分に妥協した仕事ならば、やらない方がマシ」という、尾上さんらしい引退だった。

現役当時の尾上さんの会社は、採算を度外視した丁寧な仕事を続けていたから、スタッフ全員みんな貧乏だった。

尾上さんを筆頭に、会社内で全員が少ない金を出し合って、炊き出しして食っていた。
そんな昔話で会話が弾んだ。

酒の席でだんだん酒も回り、酔った俺は尾上さんに言った。「尾上さんは豪放ぶってるけど、本当は小心者なんでしょ?」尾上さんはニコニコしながら聞いている。俺は「もういい加減に強がるのは止めてくださいよぉ、奥さんに甘えたっていいじゃないですか、思いっきり泣いちゃったっていいじゃないですかぁ~、気楽になりますよぉ~」酔った勢いでそう言ってしまった。
すると尾上さんの目から涙がスーッと頬に流れた。
そして尾上さんは「柳田君、こんなろくでもない男にありがとう…」と言って涙を拳で拭った。

その晩はしこたま飲んだが、その夜初めて尾上さんは、自分の現役時代の胸の内を明かした。「俺は自分の描く絵が嫌いで嫌いで仕方なかった…だから毎日毎日が地獄だった…そんな自分の絵が嫌いだったから、せめて良心的な仕事だけはしようと思って、採算を度外視した仕事をしてたんだ…」

尾上さんは俺と違って、実績を残したアニメーターだった。雑草話に入れるのは申し訳ないが、辛い過去を背負って必死でアニメに取り組んだ姿は残しておきたい。

その尾上さん曰わく、「最近のアニメーターは必死さがない」と言うけど、時代も違うし、尾上さんと比べられてもねぇ…