二十四時間アニメ・手塚プロ



 センテスタジオは次回作も決まらないまま存在しつづけたが、ビルのフロアを借りたままにしておくわけにもいかず、今度は手塚プロと提携を結んだ。
 ちょうどその頃、日本テレビの二十四時間アニメで手塚プロがセンテスタジオを借りることになった。作品は「ボーダープラネット」。
 そんなセンテスタジオとの縁で、その「ボーダープラネット」の動画チェックを俺がやることになった。
 センテスタジオが手塚プロに入れ替わって「ボーダープラネット」は始まったが、あの真面目な東北新社の河井さんは制作管理としてスタジオに残っていた。スタジオはセンテスタジオと同じ二階が制作室、三階が作画のまま制作は続けられた。
 三階の作画室には手塚プロの原画マン数人がいる程度で、原画も動画もほとんどが外注出しだった。二階の制作室には河井さんを始め、手塚プロの社長の松谷さんや、プロデューサーの久保田さんなどが忙しそうに働いていた。
 三階の作画室の隣の部屋が俺の仕事机だった。隣の手塚プロのアニメーター達は、楽しそうに作業しているようで、よく話し声が聞こえた。
 アニメーターには二種類の人間がいる。話しながらでも作業が進む人間と、話しかけられると作業が止まってしまう人間がいる。何度が覗いてみたが、手塚プロのアニメーター達はワイワイ話しながらでも、作業が止まることなくスイスイと原画を描いていた。仕事中に隣の原画部屋から話しかけられたこともある。
 大声で、
「柳沢さあ〜ん」
 誰の事だろ? そんな人いたっけ? そう思いながら仕事をしていると再び、
「柳沢さあ〜ん」
 どうやら俺の事らしい。
「あのお〜、柳沢さあ〜ん」
 少しムッとしながら、
「柳田です!」
「あっ、ごめんなさあい」
 とお詫びの言葉。
 そんな手塚プロの原画マン達はとてもおしゃべり好きな人が多かった。

 手塚治虫さんは、「ボーダープラネット」の制作現場にはあまり姿を見せなかったが、一度だけ外国人を数人連れて顔を見せたことがあった。俺は外様の人間だったので自己紹介を兼ねて挨拶をしたが、手塚さんはいつもテレビ画面で見てたニコニコした笑顔で接してくれた。
 ある時二階の制作室に降りて行くと、手塚プロの社長の松谷さんと河井さんが何やら話していた。
「でもねえ・・・手塚先生は冗談が通じないんだよ」
 松谷さんがグチっていた。
「外ヅラは本当にいいんだけど、中の人間には結構キビしくてね、時々冗談に怒り出すんだ」
 そうか・・・。俺が会った時の先生は外ヅラフェイスだったんだ。そう思いながら、ふとある話を思い出した。
 当時タツノコプロでプロデューサーをしていた由井さんから聞いた話だった。その由井さんが手塚プロにいた頃、手塚先生とよく散歩したそうだった。
「由井さん、由井さん、ちょっと待っていただけませんか」
 と手塚先生。
「どうしたんですか?」
 と由井さんが振り返ると、手塚先生は立ち止まったまま、
「私、どうやらガムを踏んだようです・・・。由井さん、取っていただけませんか」
 と言って、由井さんの目の前に足を投げ出したそうだ。由井さん曰く、
「手塚先生は言葉は丁寧なんだけど、やらせることがちょっとえげつなくてねえ・・・」
 と嘆いていた。

 手塚プロの「ボーダープラネット」は噂通りに遅れに遅れた。アニメ界の噂で、手塚プロの仕事はスケジュールが大変だという噂は、業界では有名だった。
 最後の頃は動画がさばききれなくなって、制作の河井さんから「柳田さんのお知り合いでどなたか動画を手伝ってくれる方はいませんか?」という頼みに、知り合いや、知っている会社に電話をかけまくったのを覚えている。
 忙しさのあまりプロデューサーの久保田さんは、机に突っ伏して、よだれをたらしながらよく寝ていた。そんな様子に陰では久保田さんのことを「よだれ男」と言ってはほくそ笑んでいた。
 次から次へと外注さんから舞い込んでくる動画チェックの仕事も大変だった。徹夜して翌日の夕方に帰って「さあ、寝よう」と布団の中に潜り込んだ瞬間に、呼び出しの電話。
「仕上げにも回さなくちゃならないから、悪いんだけど今すぐ来てくんない」
 ガックリしながらも、再びスタジオに戻って眠い目をこすりながら作業したもんだった。
 そして放映日の二日前の朝に全ての作業が終わって帰ろうとしたら、とんでもない事態が・・・。
 手塚先生から、主人公のお母さんのキャラクターが気に入らないから、原画から描き直してくれとの要求があったとのこと。手塚先生のこだわりかわがままかよくわからなかったが、俺は外様の人間、あとは手塚プロのスタッフに任せて帰ってしまった。
 その後、手塚プロのアニメーターたちの必死の努力があって、何とか放送には間に合った。

 手塚プロのハードスケジュールは業界では有名で、アニメ映画「火の鳥」では、色付けが間に合わなくて素人さんまで使ったそうだ。
 当時はセル画の時代で、どうしても仕上げの作業が間に合わない。
 そこで、社長の松谷さんが、吉祥寺などの繁華街に繰り出して、ナンパしたらしい。
「君たち高校生? 実は私はこういう者なんだけど・・・」
 と言って名刺を差し出す。
「え〜!? 手塚プロの人なんですかあ!」
 相手がのってきたら、
「アニメに興味あるなら、ウチに見学にこない界?」
 そう言って連れてくる。そして、
「遊びのつもりで色でも塗ってみる?」
 などと言ってはセル画に色を塗らせてたらしい。
 今はもうアニメもデジタル化してセル画というのも無くなってしまったが、セル画の時代はどこの会社もスケジュールが押してくると、仕上げの人達は大変だった。
 手塚治虫さんで、もうひとつ忘れられない事がある。まだ俺が十代でアニメを始めた頃、街を歩いていると選挙ポスターに目が止まった。そのポスターの端には丸で囲われた手塚治さんの顔写真があった。そしてその脇には「私は共産党を応援します」との文字。十代の素直で純粋だった俺は、あのマンガの神様が応援する党!! きっと素晴らしい党に違いない!! そう思ってしまった。そして、すぐさま実家に電話。あの神様が応援してるんだ! わけの分からないまま親にまくしたてた。ところが、親とは考えが正反対だったのか、こっぴどく怒られてしまった。当時の俺は思想や政治的な事は全く分からなかったから、なぜ怒られたのかも分からないまま、釈然としないまま、モヤモヤした気分だけが残った思い出がある。
 その後、手塚治虫さんが国民栄誉賞を貰えなかったのは、そんな政治的な出来事があったからなのかは分からないが、それは別として、残したものは凄かったと思う。