蒸発
2ヶ月半ほど練習していた男が、突然姿を消した。会社に何の連絡も無いまま、机の上に文具類を残したまま来なくなった。
そろそろ本番の仕事をさせようと、仕事を用意した当日に来なくなった。
会社としては何の得もない。動画用紙も含め、様々な経費を浪費して、指導した人間の手間も考えると、誰も得した人間はいない。
むしろ一番損をしたのは本人だろう。たとえ数カ月間といえども、無駄な日々を過ごし、戦いもせず「逃亡」したという結果は、一生消える事はない。
彼の今後の人生において、「アニメ」はホロ苦い思い出として残るだけなのだ。
気が弱く無責任。
特に雑草プロは、こういった人間が多い。完全な草食系男子が多いのだ。
消えた男は、俺が唱えるアニメ界は伏魔殿、弱い人間は飲み込まれる、といったフレーズを地で行った男だった。
彼がここに入って来て、性格が徐々に変わっていったのがはっきり見てとれた。
彼の名前は足立(仮名)年齢は23才。このホームページで、いくつか前の話で登場した、絵を描く為に縫製工場で働いていたという変わり種の男だ。
ここに入って来た当時の彼は饒舌だった。そして腕にはそこそこ自信を持っているようだった。
だがハッキリ言って、足立の絵のレベルは、どこのアニメ会社でも絶対に採用しないレベルだった。(俺の中学生の娘の方がはるかに上手い)
足立にとって、2ヶ月半の練習は、確かに辛いものだったろう。
それ以上に俺の指摘や注意は、彼には煙たかったのだろう。
自信家の足立は、本来は雑誌の漫画家が志望で、アニメは二の次だった。それは足立が発する言葉の端々からわかっていた。
「とりあえずは、絵を描けるから、アニメーターになりました。」 「家に帰ってからは漫画のネームを描いてます。」
そんな足立だったが、練習ばかりじゃモチベーションも上がらないだろうと、足立でも出来そうな本番の止めの仕事を渡した時があった。
だが彼にとっては、何の感慨も無いようだった。
普通は自分の「初カット」は、思い入れがあるものだが、それも無い。
俺が「オンエアで見てみるか?」と言うと、足立は「見れたら見ます。」と素っ気ない返事だった。
一番困ったのが、足立は新人が入る度に近づいては、自己主張を繰り返して、先輩風を吹かせた。
自己流の雑誌漫画の描き方、道具の選別法や技術論まで得意げに話していた。
足立のレベルを知らない後輩達は、黙って彼の話を聞いて納得しているようだった。
俺は困るのだ。まだ本番の仕事さえままならない人間に間違った情報や、「彼の夢物語」に邪魔をされては…
だから俺は本人にも注意したし、後輩達にも伝えた。「今の足立から絵に関しては、何も学ぶものは無いよ」と。
それがキッカケで足立は段々無口になっていった。
でもそれは仕方ない。己を知り、それを糧に頑張らなければ先は無い。
酒に誘っても、一人ダンマリを決め込み、周りに不快感を撒き散らす。
翌日俺は「そんな態度をとるなら、明日から来なくてもいいぞ。」と言った。その時の足立は反省の言葉を口にして、続ける意志を示したが、数日後、連絡も無く出て来なくなった。
こちらからも連絡はしていない。今の足立には何のメリットも無い。
精神的にタフでなければ、アニメ界では生き残れない。いい加減な気持ちで取り組める仕事でもない。
足立の目指す雑誌の世界も同じだろうし、才能を求められるから、もっと大変かもしれない。
もし雑誌の世界で、デッサンを全く度外視した、抽象的な絵の時代が来るならば、足立にもチャンスはあるだろう。果たしてそんな時代が来るのだろうか…
足立は自ら自分の心の片隅に、汚点を残して居なくなった。