透明人間







ここにはいろんな若者が来る。

大体が変わった人間だ。

それは仕方ない。一切の保障も無く、ましてまともに生きていく賃金も出ない。

それでも来るのだから、覚悟があるのだろうが、アニメーターを目指す若者には、二通りのタイプがいる。

信念も固く、本気で打ち込むタイプの人間。

もうひとつのタイプは、言葉はキツいが一般社会に馴染めず、行き場の無い人間。

俺は今まで数多くの。後者のタイプの人間を見てきた。

そういうタイプの人間は、一般的な感性を持ち合わせていないから、周りと数々の軋轢を生む場合が多い。

一番困るのが「感情の無い人間」

見た目は普通に生活して、会話も表情も普通の人間と何ら変わらない。

ところが、本人の心の中に自分自身が居ない…それさえ本人は気づかない…

亀田(仮名)もそんなタイプの若者だった。

20代後半でアニメーターになった亀田は、それまで数々のバイトをして食いつないできた男だった。

背も高く性格も温厚な亀田は、笑顔が似合う好青年だった。

仕事は動画の中堅どころとして、そこそこ仕事をしていた。

だが彼の一番の問題だったのは、スケジュールを守れない事。

一生懸命作業して終わらないなら、それはそれで仕方ない。

それならばそれを報告する義務はある。亀田は何度注意しても報告さえしない。

亀田は「終わります」と言っておきながら、制作進行が仕事を取りに来ても平然と作業をしてる。

それでは進行にも後の作業をする仕上げの人達にも迷惑をかける事になる。

そういう事を何度注意しても無駄だった。

前もって報告さえしてくれれば、みんなで協力して終わらせる事が出来る。

だが、亀田は報告すらしないから、問題が起こる。

そして毎回毎回、同僚達が慌てて亀田の尻拭いをするハメになる。

そんないい加減な仕事ぶりに、俺は何度も怒ったが、亀田の口からは「すいません」の一言も出ない…

その態度に俺は何度もキレて怒鳴ったが、効き目は無かった。

そんな事を繰り返すから、しまいには同僚達を含めた会議にまで発展してしまった。

会議は穏やかに進んだ。

同僚達が知りたいのは、何故亀田がそういう事を繰り返すのかの一点だけだった。

同僚達が穏やかに話しかけても亀田は無言を貫いた。

俺「なぁ、亀田君、何も君を苛めてる訳じゃないんだ。終わらないなら終わらないって、ひと事報告してくれればいいだけなんだ。何故報告してくれないんだい?」

亀田「…」

俺「どうして報告してくれないのか、理由だけでも話してくれないか?」

亀田「…」

俺「みんなだって、こうして君の為に時間を潰して上手く仕事が運ぶようにと思っているんだ」

亀田「…」

俺「君がこうして一言も口を開かないなら、わざとやってると認める事になるんだぞ、それでもいいのか?」

亀田「…」

会議は深夜まで及んだが、亀田の口から一言も発する事は無かった…

そんな亀田は普段から無口なわけじゃない。仲のいい同僚とは笑いながらよくおしゃべりをしている。

ただ、どんな失敗や他人に迷惑をかけても謝ることの出来ない人間だった…

それで俺は亀田を時々怒った。

そんな俺の怒りに根負けしたのか、いつしか亀田の口から「すみませんでした」の言葉が返ってくるようになった。

だが、それは心からの言葉ではなく、いつもその場逃れのセリフだった。

まず、その場では絶対に謝らない。決まって一日経ってから謝る。

その場で謝れば済むものを必ず一日置く。その間被害を被った人間は怒りが増幅するだけ。

そしてどんな大失態を起こしても、「すみませんでした」の一言でアッサリ去って行く。亀田本人はそれで全てが解決すると思ってるのだ。

それである時、俺は亀田に注意をした。

「君はいつもオウムや九官鳥のように、すみませんでしたの一言しか言わないね。」

亀田「どういう意味でしょうか?…」

俺「本当に心から反省したなら、もっとボキャブラリーも大事にしたらどうだい。」

亀田「???…」

俺「君のお詫びはいつも君自身が無いんだよ…一切見えないんだ…例えば、勘違いをしてましたとか、配慮が足りませんでしたとか、君の感情が言葉に無い。だから他人には伝わらないんだ」そんな注意をした。

その日また亀田はヘマをした。

そして翌日俺の所に来た。開口一番「昨日は勘違いして、配慮が足りなくてすみませんでした。」

昨日の俺の注意を聞いていた同僚達の目が点になった…まさにオウム返し…

亀田との会話は万事この調子。

俺「亀田君、コレ旨いだろ?」

亀田「コレ旨いですね。」

俺「この雑巾汚いねぇ…」

亀田「雑巾汚いですねぇ。」

俺「もうこんな時間かぁ…」

亀田「もうこんな時間なんですねぇ。」

会話は殆どオウム返し…

亀田は決して悪い人間ではない。休みの日にみんなでハイキングに行ったり、サッカーや野球をして楽しい日々もあった。

仕事以外では素直だったし真面目だった。最初のうちはわからなかったが、亀田と付き合っていくうちに彼の事が段々わかってきた。

亀田はボキャブラリーを全く持ち合わせて無い人間だった。そして子供のような感性。

ある晩、雑草プロの女子、土条が遮断機の降りた踏切に立っていると、後ろから突然亀田に跳び蹴りで尻を蹴られた。

土条「その瞬間困りました…亀田さんだとわかって、おどけていいのか、怒っていいのか迷いました。私だって女ですから…」

それは俺にも出来ないゲイトウ…

亀田が笑いながら言う。「それは土条さんを女だと意識しないから出来るんですよぉ。」それをまた言えてしまうのが凄い。
これが30近い男のする事だと思うと理解出来ない。

亀田のマイペースな仕事ぶりと感性の違いは、周りとあまりしっくりいかなかった。

ある同僚が言った。「亀田さんの笑顔の後ろは、いつもみんなを拒否してるんですね…」

俺「違うよ、あれでも亀田の心はいつも両手を開いて歓迎してるんだ。」

同僚「えっ!???」

「ただ、小学生のような純粋な精神だから、俺らがその両手の中に入れないだけなんだ…」

同僚「…」

俺「亀田は純粋すぎて、その両手はすり抜けてしまうんだ…」

同僚「…なんか、わかったような気がします。」

亀田の前の仕事はラーメン屋のバイト。

亀田が言う。「その店には嫌な先輩がいて、一度胸ぐら掴まれて怒られたんで、絶対戻りたくないですねぇ。」

亀田を見ていて、その先輩の気持ちがよくわかる。

怒る意味合いが亀田とは違っていたのかもしれない。だが亀田にとっては全てが悪意…

彼が会社の近くに引っ越して来た時は、わざわざ母親が上京して付きっきりだったらしい。

そんな亀田だったが、彼は彼なりに悩んだはずだ。それが証拠に亀田の側頭部には、500円玉サイズのハゲがポッカリ出来た。

亀田は今はもうこの雑草プロにはいない。

ギリギリの生活に将来の不安を感じて、転職すると言って辞めて行った。

そんな亀田との心のすれ違いを通して、お互いに人を理解する難しさを学んだと思ってる。