地獄のマゾヒスト

                                                                                                           2014/11/04





雑草プロの新人の萩原(仮名)は25才でアニメを始めた男だ。
最初に断っておくが、萩原がマゾヒストだというわけじゃない。それは最後まで読めばわかる。

その萩原は役者の「萩原流行」に似てる為、いつしか名前が萩原になってしまった。
その萩原は実家のある千葉から毎日通勤している。最初の頃は収入も少なく、定期代にも困って、コミックを売って定期代を捻出していた。
それでも、少しでも交通費を浮かす為、毎日ふた駅走って通勤していた。

「お先にしっ、しつるいすっ、します。」いつも「サ行」でカミまくる萩原。
「すいません、柳田さんの電話に出れなくて…新しい携帯で、電話の出方がわからなかっんです…」
そんなどこか「すっとぼけた」雰囲気の萩原はどこか憎めない男なのだ。

子供時代は父親の仕事の関係で、イギリスやマレーシアに住んでいたらしいが、日本語以外は全く話せない。
「日本語学校で、ずっと過ごしてましたから、みんな日本人で、日本語以外は使いませんでした。」とのこと。
そんな幼少期を過ごしたからなのか、今の若者と違って、いたって素直でスレてない。

最近は定期代に困るという事はなくなったみたいだが、それでもまだギリギリの生活をしている。
毎月家に数万円を入れて、定期を買うと手元には一万円程度しか残らない。毎月それでやりくりしてる。
それでもアパート暮らしの人間よりはまだマシだ。
昼食は母親が握ってくれる「おにぎり」を毎日持って来る。おにぎりケースは象さんの絵が付いている…(笑)母親が買ってきたそうだ。
そして夕食はカップ麺や飲み物だけで済ませて、帰ってからまた食べてるようだ。
大体が自宅通勤組は、このパターンが多い。

萩原は朝の10時から夜の11時ぐらいまで会社で作業している。終電に乗り遅れて、途中までしか行けない時もあるらしいが、そんな時は何時間も歩くらしい。
萩原が帰宅するのは1時近くになり、ほぼアニメ漬けの毎日だ。
自宅が遠い人間で、中には帰れなくなって公園で「野宿」をした新人もいる。

長時間労働で低賃金。小遣いさえままならず、それでもアニメの仕事に群がる若者は多い。
萩原は全くアニメの知識も無く、ここに入って来たが、新人の中で一番飲み込みが早い。
動画のあがり枚数も新人の中では一番だし、いつも最終電車ギリギリまで頑張っている。

今年の新人で俺が「及第点」を与えられるのは、萩原ただ一人。
他の新人と何が違うかと言うと、性格の素直さと集中力が違う。
ヘタにアニメの知識を持ってないのが、逆に良い方に作用している。駄目な奴は屁理屈が邪魔をして上達を阻む。知ったかぶりして、そこには「疑問符」が無い。

その点萩原は愚痴は言わないし、泣き言も聞いた事がない、そんな前向きな性格が他の新人と違う。
駄目な奴は「言い訳」ばかりで、他人を思いやれない。だから仕事も上達しない。

下描きをバラバラの大きさの紙に描いてくる。
「これじゃあ、パラパラさせて動画が見れないだろ、チェックしづらいし、チェックする人の事も考えろよ。」
そういった配慮が足りない。

「動画の絵がわかりづらい時は、裏にメモしないと仕上げの人がわからないだろ。自分だけわかればいいんだじゃ駄目なんだ。」
次の作業の人の事は考えない…そんな想像力も無い…
そんな奴は原画になっても、雑な原画しか描けない。
うっかり程度のミスならまだいい。中には言われた事を実行しない奴もいる。

先日雑草プロでは、あまりの「ていたらく」に日曜出勤を命じた。
俺にとっては「禁じ手」ではあったが、それを使ってまでの引き締めだった。

とにかく個人主義で、いつも損するのは俺や南。他人の事は一切お構いなし、そして人に対しての優しさも無い。
非常識を注意する先輩もいないし、それすら感じてない。

そんな事がきっかけで、キレた!
「次の日曜は連帯責任で日曜出勤だ!!親族に死人でも出ない限り仕事してもらう。嫌だったら辞めりゃいいんだ。」

最近の若者は本気で怒らないとわからない。
事実本気だし、それで辞めるならそれも良し。仕事の出来ないカス人間は、まだ使いようがあるが、人の痛みがわからない人間のカスは使いようがないのだ。

アニメーターが低賃金で過酷な職業だという事はわかる。技術的な自身との戦い、食えない悩み、いろいろある。でも、だからといって全てが許されるわけじゃない。
そして俺はどんな犠牲があっても当たり前の筋だけは通す。
尻拭いで休みも無く働く人間の苦労も実践させなきゃわからない。

ところが、その日の南は友人の結婚式…
連帯責任は南にとっては、とんだトバッチリだったろうが、南は友人の結婚式の出席を取り消して日曜出勤してきた。南もまた筋は通す。
組織の中で自分勝手な人間を許すと全てのルールは、なし崩しに破綻していく。

過去にもこんな事があった。
「いいんですか? じゃあ、私辞めますよ。辞めていいんですか? 私が辞めたら上がりも少なくなりますよ。」原画の女だった。
俺は冷ややかに「脅しのつもりか? 俺には通用しないぞ。だったら勝手に辞めろよ。」と言ってやった。その女はしばらくして辞めて行ったが、そういう脅しに屈して、毒されていく下請け会社もある。「さわらぬ神に祟りなし」だとばかりに…

ガンは広がる前に切り捨てないと周りに感染する。

そんな自分勝手な人間の為に、トイレのドアに張り紙をした。
「人に優しく! 自分の事だけ考えない! アニメーターはサービス業だ! サービス出来なくてどうする!」

そんな日曜出勤だったが、連絡も無しに来ない人間が一人だけいた。
仕事が出来る人間ならまだいい。そいつは今年入った糞の役にも立たない新人。
南に散々迷惑かけながら、南に教えてもらってる立場。
その南ですら、友人の結婚式をキャンセルしてまで出勤してる。

そんな周りを敵に回してまでのノータリン。
きっと地獄の日々を覚悟したマゾヒストなのかもしれないな。