岩子に降参
雑草プロにはいろんなキャラクターの人間が、入って来ては挫折して去って行く。
今まで一番面倒だった新人は岩子(仮名)という24才の女性だった。
岩子は出会った瞬間から強烈な印象だった。
雑草プロに入って来る新人は、制作の人間から前もって履歴書を渡される。ところが、来た人間の顔が履歴書とあきらかに違う…
履歴書の写真は痩せていて、そこそこの美人。
だが目の前にいる新人は、まるまると太ったオタフク顔。
そのうえ体も大柄でゴツイ肩は、まるでアメリカンフットボールのプロテクターを入れているんじゃないかと見間違うほど…
驚いて制作の人間に確認すると、向こうも面接の時に驚いたらしく、話によれば履歴書の写真は、自分が一番輝いていた頃の写真だったらしい。
数年間の時の流れと共に、彼女はシカから熊に変身を遂げていたのだった。
岩子は入ってきた当日から妙に馴れ馴れしく、食事に行こうとすると「私にご馳走してくださあ~い」などと付いてくる。
翌日みんなが朝の掃除をしていると、先輩女性の机に勝手に座り、買ってきた弁当を食べ始めた。それも二つも…
それをたいらげると「私にも掃除させてくださあ~い」すると勝手に机を使われた先輩女史が「それじゃあ、まず最初に私の机の上の食い散らかしたお弁当を片付けて下さい!」と睨まれていた。
そんな大食漢の岩子の食事は毎日二個の弁当を食う。
体重が重いのか、弁当を買いに行くのにも一苦労で、帰ってくると大量の汗で着ている服はグチャグチャ。
アニメーターにとって、一食二個の弁当はお大臣。
岩子の話によると、岩子は50過ぎのパトロンと同性中で、小金には困ってないらしい。
驚いたのが「私は糖尿病で通院してるんです」と言いながら、飯だけはガバガバ食う。
練習期間中もいねむりばかりで、いくら経っても本番の仕事に入れない。
トレスしたお粗末な絵を先輩に指摘されてもヘコたれない。
「わかりました。じゃあ、ここの線はどうですか?」「こっちの線はなかなかでしょう?」などと、駄目な箇所を無視して、無理やりいい所を導き出そうとする。
やり直しを命じられても、テキトーに処理してものの数分で持ってくる。
その繰り返しで面倒を見ていたO君が、自分の仕事に手がつけられない。これにはさすがのO君もキレた。「もっと真剣にやって下さい!」
そんな練習が1ヶ月が過ぎた頃、このままだと岩子のモチベーションが下がるのを懸念して、俺は無理やり簡単な仕事を選んで岩子に渡すことにした。
これがマズかった…
自信を持った岩子は完全なプロになったと勘違いした。リテークを出せば先輩に食ってかかってくる。
屁理屈を交えて、やり直しの細かな説明を求めてくる。
面倒くさいから、最後は誰かが修正して提出する日々が何日か続いた。
それを見かねた俺は、再び岩子を練習生に戻した。
案の定、岩子の猛抗議!
でも俺は譲れない。「アニメの仕事は連帯責任なんだ、一人でもお粗末な仕事を提出したら、会社の信頼が揺らぐし、信用が無くなってしまうんだ」と諭しても岩子は一歩も引かない。
「じゃあ、今まで私のやった仕事でクレームが来たんですか!」口から泡を飛ばしてまくし立てる。
「どの仕事で、どのカットか詳しい説明をキチンとして下さい!」
そんなやり取りが続いたが、俺はハッキリ言ってやった。
「今のレベルじゃ本番は無理なんだ。今までがお情けで、みんなが尻拭いしてたんだ。本番に入れるまでの練習生が嫌なら、ここを去ってくれ、ここに練習生が居ても何の利益も無いんだ! ただで教えてもらえる事を有り難く思え!」すると岩子は大泣きをして「それじゃ解雇と同じ扱いじゃないですか!」見苦しい顔で吠えまくってきた。
それでも俺の固い決意に圧されたのか、岩子は渋々練習生に戻った。
練習生に戻っても相変わらず岩子は、会社に来ては少しの練習といねむりの繰り返し。飯時だけはシャンとしてガバガバ飯を食う。
「私が居眠りするのは糖尿病の薬のせいかなぁ…」と岩子。
それを聞いていたO君が「じゃあ、薬を変えたらどうですか?」と提案。すると岩子は「ヤダ~、私そんなお金ないもの」
…バカ食いする金はあっても、岩子にとって食うことは、薬よりも優先順位が上のようだった。
ある時、その岩子が昼食時にナント!弁当一個!
聞けば前日池袋でナンパされたとのこと(ホントかよ?)
しかし、喫茶店のトイレに入ってる間にバッグと男が消えていた。財布の入ったバッグと男がテレポート。(納得)
「だから少し節約しないといけないんですぅ~」とアッケラカン。
何事もプラス思考の岩子にお世辞や社交辞令は通じない。言葉通りに受け取られ、先輩達とはすれ違いの毎日。
そんな岩子がここを去ったのは、糖尿病の悪化で、国に帰って入院する為だった。
面倒くさいのが居なくなって、安心したのもつかの間、岩子は毎日のように会社に電話してくる。そして電話を受けた人間に人生相談。
「私、今迷ってるんです、今後はアニメ界に戻るか漫画を描くか決めかねてるんですぅ~」毎夜かかってくる電話にみんなキレ気味で「それは自分で決めて下さい!」それでもめげない岩子の電話はしばらく続いた。
岩子からの電話が途絶えてしばらく経った頃、再び会社に岩子からの恐怖の電話。それも今度は俺限定のご指名。
どうせろくな話じゃないから、俺は会社の人間に命じて居留守を決め込んだ。
それでも岩子の電話の攻勢は続いた。
ところが、ある時どこでどう調べたのか、俺の自宅にまで電話がかかってきた。もちろん妻に命じて居留守を決め込んだ。
何度かけても捕まらない俺に岩子の口調が段々荒くなってきたらしい。妻に対して「そうですか、じゃあ、帰ってきたら必ず私に電話するように伝えて下さい! 必ずですよ!」
翌日も「昨日も連絡ありませんでしたよ! 奥さん、本当に伝えてくれたんでしょうね!」
その高圧的な口調に妻が「本当はこの人と何かあったんじゃないの?」と疑い始めた。マズい
濡れ衣まで着せられたらたまったもんじゃない。こうなったら覚悟を決めて岩子に電話した。
電話に出た岩子は「私やっぱりアニメを続ける決心をしました」
俺「うん、それで?」
岩子「今は病気も通院で済んでますし、なるべく早く東京に戻りたいんですけど、両親が一緒に住んでる彼と別れないと東京に出さないと言ってるんですう~」
親としての気持ちはわかる、なんせ自分達より年上の彼なんだから…
俺「それでどうするんだ?」
岩子「別れることにしましたあ」と意外に明るい。
岩子が続ける「それで相談なんですけど、そうすると住む所が無くなっちゃうので、もし良かったら、柳田さんのお宅でお世話になれませんかあ?」
「なれなあ~い」(心の叫び)
俺の五臓六腑が、野獣のように身震いしながら吠えたのだった。
岩子よ、俺は君を決して忘れない、だが、頼むから君は俺を忘れてくれ。
今は安泰の日々が続いてる。