路上のソリスト

                                                                                                           2017/05/02





俺は言葉がキツいから、誤解もあると思うが、心底悪い人間がいるとは思っていない。

雑草プロを去った今、もうひとつ付け加えておかなければならない事実がある。
それは本文で度々登場した武士道アニメーターの「拝さん」と、雑草プロの社長は同一人物なのだ。

簡単に説明すると、若い頃の拝さんは、仕事に対する情熱と姿勢は尊敬に値する人物だった。そして一時代を築いたアニメーターだった。仕事の質を追求して、まさに手塚治虫の「フィルムは生きている」のような仕事の仕方だった。
その拝さんの生い立ちは悲惨で、映画「砂の器」を地でいくような、過酷な幼少時代だった。
そんな理由から、幼い頃から「弱音」と「甘え」は【悪】と位置付け、鬼神のような努力で這い上がってきた人でもあった。

俺が上京してアニメを始めたばかりの頃は、稼ぎも少なく拝さんに金銭的に世話なった。その拝さんは面倒みも良く、優しい面もあった。そして俺は拝さんの仕事ぶりを尊敬し、悲しい生い立ちに同情した。
そこから俺の盲目の「拝シンパ」が始まってしまったのだった。そして悪にも染まった。

だが、あのアニメ界を揺るがした事件が決定的になってしまった。
その後の拝さんの普通じゃない言動に、俺はあきらかに病である事を悟った。そしてそれが我慢の限界を超え、拝さんの元を去った。

それでも俺の心の片隅には、拝さんが居た。
もし自分が拝さんと同じような過酷な生い立ちを辿っていたら、果たしてどうなっていただろうか?…
甘えと弱音を封印して、無理に無理を重ねて生きていたら、同じようにおかしくなっていたかもしれない…

そしていつしか拝さんとの交流が復活していた。よく散歩や酒にも付き合うようになっていた。
ある酒の席で、あの頑固で強がりの拝さんが、「柳田君、こんなろくでもない男に、付き合ってくれてありがとう…」と涙したこともあった。
それは今まで、誰にも見せた事がない「弱気」の涙だった…

おそらく拝という人物を一番理解してるのは俺だろう。それは向こうもわかっているだろう…
だが、それと同時に過去を共有するお互いが、「好意と憎しみ」を同時に持ち合わせている関係でもあった。

俺が雑草プロに戻ったのは、嫌な事は忘れて新人育成に励み、自分の心の闇の清算だった。
もうひとつ、俺は医者じゃないから病は直せない。それでも拝さんの心の「安らぎ」になれればと思っていた。
ところが、数々の常識外れのトラブルに巻き込まれ、生きる糧の収入まで心配するような事態になっていった…
俺はそれを捨てでまで「無償の愛」は注げないのだ。家族や多くの雑草達まで巻き込んでまで、「罪を憎んで人は憎まず」の心にはなれない。そんなジレンマとずっと戦ってきた…

心情を映画に例えるなら、ユニバーサル映画の「路上のソリスト」なのだ。
映画の「路上のソリスト」は実話だ。そして、「雑草プロ物語」も実話。
映画の結末と同じように、この結末は誰にもわからない…
たった一人の人間の心を理解するには、多くの時間と労力を必要とする。まして一人の人間に真逆の別人格が存在するなら、尚更理解は難しい。
この映画を見れば、その難しさと苦悩がよくわかる。

今でも多くのアニメーターは、過酷な労働環境で喘いでいる。
アニメが日本の誇れる産業だと言うのなら、見せかけだけじゃない産業にしてもらいたい。
アニメーターは、いろんな面で強くなければ生き残れない。

路上のソリストだけにはなって欲しくない…