荒木伸吾に憑かれた男

                                                                                                           2015/01/19





「俺、荒木さんに謝ったんだ。」
久々に会った先輩の元アニメーターのTさんがそう言った。

Tさん「荒木さんが生きてるうちに謝れて良かったよ。」Tさんはしみじみとした顔でそう言った。
Tさんの言う荒木さんとは、アニメ界では有名なアニメーターの故・荒木伸吾さんのことだ。

荒木さんは元漫画家で虫プロ時代からアニメを始め、アニメ界では数々のキャラクターデザインを手がけ、作画監督としても活躍した有名な人物だった。
Tさんもまた虫プロ出身のアニメーターで、現役時代は数本のキャラクターデザインと、作画監督として活躍した人だ。
残念ながら俺は荒木伸吾さんと面識は無いが、一度だけ東映の制作室で見かけた事はある。

Tさん「俺が虫プロに入った時は、荒木さんは憧れの人だったんだ。いつか荒木さんみたいな原画を描きたい、荒木さんみたいに上手くなりたいっていう一心で、俺はアニメを続けてきたんだ。」
Tさんと会うといつも虫プロ時代と荒木さんの話が多い。
Tさんはいつも当時を懐かしむように話す。

Tさん「荒木さんは当時の虫プロの給料じゃ、実家に仕送りが出来ないから、倍にしてくださいって会社に掛け合ったんだ。そのかわり人の倍の仕事はしますからって言って、本当に荒木さんは人の倍の仕事をしたんだ。」Tさんからはいつも、荒木さんの凄さは聞かされていた。

Tさん「俺は虫プロでも一番下手だったから、一歩でも荒木さんに近づこうと思って、デッサン教室にも通ったんだよ。」
俺「ところで、一体荒木さんに何を謝ったんですか?」

Tさんの話を要約すると、虫プロ倒産後のTさんは、その尊敬する荒木さんと一緒に仕事をするようになったらしい。
荒木さんは良き先輩で、Tさんは荒木さんから本当によく面倒を見てもらったそうだ。
そして、そのTさんもアニメーターとして段々力を付けてきた頃、Tさん自身に心の変化があった。
それまで憧れて、尊敬していた荒木さんに対して、ライバル意識が芽生え、そのライバル意識が卑屈に歪んでいったようだ。
心の中で荒木さんを尊敬しながらも、その腕を妬みやっかみ、いつしかギクシャクした関係になってしまったそうだ。
表立って喧嘩したわけでもないのに、そういった思いはお互い空気で伝わってしまう。

そんなTさんの一方的なライバル意識が、微妙な気まずさと二人の間に見えない壁が生まれた。
そして荒木さんとは袂を離れて、お互いが別の作品に関わるようになる。
それでもTさんにとっての荒木伸吾という人物は、絶対に超えられない人物であり、いつも荒木さんを意識しながら仕事をしてきたそうだ。

アニメーターのTさんの心の中にはいつも荒木伸吾さんが居た。それから数十年の月日が流れ、Tさんはアニメーターを引退した。

Tさん「それが不思議なんだよ。荒木さんが亡くなる年に、急に過去の苦い記憶が蘇ってきて、オレ荒木さんに電話したんだ…自分が長年アニメーターとして仕事を続けられたのは荒木さんのお陰です。そして今日自分があるのは荒木さんのお陰です。若気のいたりで生意気な態度があったかもしれませんが、申し訳ありませんでしたって謝ったんだ。」

俺「それで荒木さんは何て言ってました?」

Tさん「いやいや、そんなことは無いし、気にしないで欲しいって言ってたよ。明るい口調で言ってくれたから救われたよ。」とTさんがはじめて笑顔になった。

Tさんにとっては何十年もそのことが、心のどこかにずっと引っかかっていたのだろう。
Tさんにとっての荒木さんはアニメーターの鏡だった。そして一番影響を受けた人物だった。それは今でも変わらない。

Tさんは荒木さんに憧れ、嫉妬しながらも、闘争心を燃やして、アニメに取り組んだ。
その強過ぎる憧れと嫉妬心が、微妙なすれ違いを生んでしまった。
Tさんのアニメーター人生は、憧れの先輩の後ろ姿をずっと追い続けたアニメ人生だった。

今の若者はアニメーターとして上達する事よりも、好きな作品に関わる事の方が、優先順位の上にくる。
「この作品をやりたかったから、アニメーターになったんです。他の作品はやりたくありません。」そういった趣味と道楽の延長で、仕事している新人も多い。
俺が他のスタジオで、他の作品を例にあげてアドバイスしても、「そうですか、でも僕はそういう作品はやりませんから。」と言葉が返ってきた事もある。

「仕事」と「趣味」、「自由」と「自分勝手」の違いがわからない。そして人付き合いさえ出来ない…
常識と観念そのものが全く違うから、話そのものが全く噛み合わない。
たぶん、この話を読んでも、Tさんの心は理解は出来ないだろう。

そんなTさんのような純粋で熱い人間は、今はあまり見かけない。