どうにも止まらない

                                                                                                           2015/02/12





「はい、トレスをするのは初めてです。」そう話すのは今度雑草プロに入って来た「36歳の新人男」だ。
雑草プロの別室で彼と二人で話してみた。

俺「ずいぶん思い切った決断したねぇ…」

36歳「はい、僕がアニメにはまったのは30を過ぎてからなんです。」

俺「どんな作品にはまったんだい?」

36歳「特にはまったのは、深夜アニメです。」

俺「どんな作品?」

36歳「けいおんとか、アレ?、何だったけかなぁ?…今ちょっと出てこないんですけど、深夜のアニメです。」

俺「アニメをやってみたいと思ったキッカケは?」

36歳「深夜アニメを見ていたら、そのクオリティにビックリして、自分もやってみたいと思ったんです。」

俺「好きなアニメーターっているの?」

36歳「ええと、…何て言ったかなぁ…名前が出てこないんですけど、初期のプリキュアをキャラクターデザインした人です。」

彼といろいろ話してみたが、アニメの知識はそんな程度だった。
おそらくアニメ好きの中学生や高校生の方が、よっぽど知識があるだろう。

俺「はっきり言ってアニメの仕事は食えないよ。」

36歳「はい、僕は実家から通うので大丈夫です。」

俺「両親から反対されなかった?」

36歳「はい、特に反対はされませんでした。」

俺「最低でも一年は小遣い程度しか稼げないよ。」

36歳「はい、大丈夫です。」

彼との会話から受けた印象は、真面目で、悪い人間ではない。ただインパクトが弱すぎる。アニメに対する情熱もさほど感じなかったし、好奇心に毛が生えた程度の道楽のようなものに感じた。
大体は想像してた通りの人物だった。トレスもした事もなく、36歳からアニメを始めるにしては、あまりにも遅すぎる。今後彼がアニメーターとして大成するには、「奇跡」が起こるのを待つしかないだろう。それにしても、これからアニメを始められるという、彼の環境と両親の寛大さに恐れ入った。

趣味で「見るアニメ」と、仕事として「描くアニメ」では全く違う。
多少の覚悟はあるのだろうが、ここにはそんな夢見る中年男がよく来る。中には一流企業の役職を捨ててまでチャレンジする男や、学校の教員を辞めて来た男もいる。そして今回の彼もお堅い仕事を辞めてやってきた。

「中年過ぎて」何が彼らを駆り立てて魅了するのか、俺にはわからない。つくづくアニメって恐ろしいものだと感じる。
まだ彼がどんな人物かわからないが、俺の知る限り中年からアニメを始めてビックになったアニメーターは一人もいない。
そして、そういった彼らは決まって独身だ。そして現実の恋愛はすでに諦めている。自分一人が好きな事して生きられればいいと思っている。
現実の社会を拒否して、彼らなりの夢の世界がアニメにはあるのかもしれない。

ただ、中年から突然絵を描き始めても、一番ネックになるのは、「絵が描けない」、「手が動かない」(笑わないで)
若者じゃないから、多少の老化はあるだろうし、今まで絵を描いたことなど無い人間にとって、使った事が無い筋肉を使うわけだから当然だ。
絵の「線を引く」というより「点を繋げる」といった有り様だ。

また中年を過ぎるとすでに頭が固くなっていて、理屈でしか物事を考えない。そして同僚の若いアニメーター達に対しても、自分が歳上だという「変なプライド」があるから、素直に仕事が出来ない。
そのプライドは、これから得なければならない事柄でさえ、自分から拒否してしまう。
今度入って来た36歳の彼が、そういった輩でないことだけを願う。

昼休みにその彼が居ない間、彼がトレスした絵を覗いて見た。
用紙の隅に費やした時間が書いてある。
すると、プロだったら数分で描ける絵に一時間三十分もかかってた。それも雑…全くの素人だから仕方ないと思ってたら、彼が戻ってきた。

俺「最初だから仕方ないけど、アニメーターはスピードも大事だから、クオリティの高い絵をもう少し早く描けるようにならないとな。」

36歳「はい、わかりました。」と元気よく応えた。

しばらくすると、その彼が「言われた通りスピードアップを心掛けて描いたら、今度は15分で描けました。」と嬉しそうな顔をしてる。
その絵を見たら、「うう~ん…」言葉も出ない…
描く以前に絵を見る目も無い。本人だけが自信満々…
やっぱりなぁ…

自分が上手いか下手かさえわからず、そんな一番重要な部分は度外視して、憧れだけで来る人間が多い。
そんな中年からアニメを始める人材なんて他には居ない。そんな姿を見れるのはここだけだ。そう考えると俺は貴重な体験してるのかもしれない。
そして中年の彼らはアニメーターの厳しい世界の噂さえ信じちゃいないのだ。

「うわさを信じちゃいけないよ。私の心はウブなのさ。いつでも楽しい夢を見て、生きているのが好きなのさ…」そんな山本リンダの歌を思い出す。

そして、「どうにも止まらない」